KONA WIND-南の風- iBS学院長・南 徹ブログ

アメリカ人に英語を教えていた日本人が外語学院を作った。その学院長が、日本を、世界を斬るブログ!!

死に直面して~その9~

2007-10-16 20:50:07 | 九死に一生物語

生きていれば病気もする。それが人間だ。


なんて、病気を甘く見て、ひどい目にあったことがある。


毎年、オーストラリアに生徒を引率していく時期が来るたびに思い出す。

10数年昔の話だ。


日本を離れる前に、お腹がチクチクして変な感じだが、病院嫌いの僕は、
どうせすぐ治るだろうと、何もないかのような顔をして飛行機に乗った。


忍耐力との勝負のような長い飛行時間と戦いながらパースの町に降りた。

痛みはどんどんひどくなる。

それでも忍耐力を試している自分がいた。


僕の脂汗の様子を察してか、ホテルよりも、まずは自分の家に遊びに来て欲しいと誘ってくれる学院卒業生の家に案内された。

やがて、食べても飲んでも吐いてしまう自分に限界を感じて、
自分の体だからいいだろうと、様々な痛み止めを試みることにした。

生物や医学の勉強を少しだけかじっていたおかげで、
どうにかこうにか痛みを止めることはできた。

パース留学の3人の学生は、心配して徹夜で僕を看病してくれた。

彼らには、僕の強がりの笑顔は、ウツボに咬まれたタコのように見えたかもしれない。
何とか動けるので、そのまま三日間滞在して、帰りの飛行機に飛び乗った。

苦しかった。

飛行機に何年も乗り続けているような、とても長い地獄の旅に思えた。


どうにか、家には帰りついたのだが、救急車は恥ずかしいので、タクシーで病院に駆け込んだ。


医者に脅された。もう少し遅れたら、間違いなく死んでいたそうだ。

天国行きか、地獄行きかは、わからないけど?

盲腸炎がひどくなり、腹膜炎を起こしていたのである。

すぐに、切腹の手術だ。

麻酔が効かないと、何回も大きな針が僕の背中を刺した。

手術は成功したが、通常の盲腸の入院の倍以上、病院に入院することを強制された。


手術後1週間過ぎた頃、お腹に突き刺さっている管が邪魔だし、早く退院したくて、
無理やりに管を引き抜いた。

すごく怒られた。

今も僕の右腹部に大きな傷あとが残っているのはそのせいだ。




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死に直面して~その8~

2007-10-06 23:21:42 | 九死に一生物語

今回は、好奇心も度を過ぎると命を失うかもしれないという体験です。
真夜中に、開門岳の沖合いで
密漁をしているグループの行動を観察したいという好奇心が招いた災いです。
幸いにも、グループの中に知人がいたことで、
好奇心が現実のものになりました。
船は真夜中の12時ごろ、沖合いに停泊しました。
見つからないように、船の電気は全て消されます。
ダイバーは海の中に入ってから、
海中で水中電灯をつけ、アクアラングを背負って潜ります。
水音一つたてず、忍者のように海の中に消えて行きました。

見張り役に、一人が船に残っていました。
僕は、静かに待っていれば良いものを、
後から追いかけて、魚を採る様子を見たくなりました。
船に残っていたアクアラング等のダイビング道具を借りて、静かに飛び込みました。
海中で電灯をつけ、10メートルほど、海底に向かって真っ直ぐ潜りました。
底は、潮の流れが速く、誰もいません。
海の底で、思いっきり流されたので、船を見失うといけないと思い浮上しました。
案の定、船の姿はどこにも見えません。
真っ暗闇で、何にも見えません。
見えるのは、空の星だけです。真夜中の東シナ海に一人ぼっちです。
まずは、陸がどの方向にあるのかを見分けなければと思い、
ぐるりと周りを見渡すと、
開聞岳と夜空の境のような、淡い光の流れが見えました。
陸の方角に間違いないと確信し、泳ぎ始めたのは良かったのですが、
いくら泳いでも、一向に距離は縮みません。
腰に付けたオモリが重くて、思うように泳げません。
捨てれば良いんですが、借りたものだから、なかなか決断がつきません。
体がだんだん痺れてきました。
水を飲みながら、気が遠くなっていくのがわかりました。
力尽きて、体が沈んでいきます。

もう限界だと、あきらめそうになったときでした。
偶然にも、真下から、密漁のリーダーが浮かび上がり、
僕の体にぶつかりました。奇跡です。
僕の異常に気がついたリーダーは、びっくりして、
イフジャケットを膨らませろ!と叫びました。
体が痺れて動かないと答えると、僕の身の回りの重そうなものを全部取り外し、
ライフジャケットを膨らませてくれました。
突然、体が雲の上に乗ったような気分になりました。
後で気がついたのですが、
アクアラングを支えているライフジャケットを膨らます方法が判らなかったことが
一番の問題だったようです。
リーダーは、泳げるか?と僕に問いかけましたが、
無感覚の体は動きません。
リーダーに支えられながら、やっとの思いで、船まで帰ることができました。
海底の地形も、船の動きも、潮の流れの事前知識もまったくなく、
ダイビング道具は全て借り物という、愚かな冒険でした。
結局、みんなの笑いと、酒の席の話題にされてしまいました。

大型のクーラー一杯になるほどの大漁でした。
密漁は、よくありませんが、
メンバーのみんなが、とっても素晴らしい人々に見えました。

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死に直面して~その7~

2007-10-04 23:16:21 | 九死に一生物語

僕は海が大好きだ。
人工の世界から完全に開放される身近な世界は、海しかない。
人は、なぜ海に魅せられるのか?
母なる大地という言葉があるが、それ以上に、
海は、母親の懐に抱かれているような心地よさを感じられる、
唯一の場所なのかもしれない。
海で危険な目にあったことは何回もあるが、
それでも、性懲りもなく海に行く。

今回も、弟の琢磨との釣りに行った時の体験だ。
硫黄島の釣り場の岩礁に瀬渡しされたのは、
まだ明けやらぬ早朝5時過ぎだった。
二人がやっと乗れるくらいの岩場に下ろしてもらった。
瀬の下3メートルくらいの所に波が打ち寄せ泡立っている。
絶好の黒鯛ポイントだ。
撒き餌をして、竿を出した。
すぐに竿がしなった。
大きな尾長黒鯛だ。
立て続けに5匹ほど吊り上げた。
入れ食いだ。
興奮して、無我夢中だった。

釣り針に餌をつけようと、下を見た瞬間だった。
突然の大波が、僕を襲った。
体が宙に浮いたかと思ったら、
そのまま3メートル下の海の中に飲み込まれてしまった。
ゴムの磯靴と寒さよけのズボンが重くて、泳げない。
真っ白で何も見えない。
もがくと、岩に叩きつけられる。
すぐに、意識的に海の中に潜って、岩から離れた。
ゴム靴は脱ぎ捨てた。
釣り場から少し離れた場所で、海面に浮かび上がったら、
岩の上から、弟が、僕の名前を呼び続けているのが聞こえた。
大丈夫だと手を振って、大きな波が静まってから、長い竿を下に下ろすように指示した。
波が収まった頃を見計らって、岩の近くまで泳いで帰り、
竿の先を掴んで、小さな波が来るのを待った。
波に乗って少しずつ上のほうに這い上がった。
竿を強く引くと竿が折れる。
波と竿の力のバランスを考えながら、三回ほどの波に乗り、
岸に這い上がった。
竿の先は折れたが、命には代えられない。
もしこの時に、僕をさらったような大波がまた襲ったら、
今、僕はここには存在していないかもしれない。
釣れた獲物も、クーラーボックスも、僕の竿も、着替えも
全部流れていった。
海面を流れるたくさんの漂流物を見つけて、
漁船が慌てて走ってきた。
情けない姿のまま、漁船に乗りこんだ。
でも、このまま帰るのはしゃくだから、
今度は、大きな広い岩瀬に下ろしてもらい、
ずぶ濡れのズボンとシャツを脱いで、よく絞って、
乾いた岩の上に干しながら、濡れたパンツ姿で、
弟の折れた竿と船頭から分けてもらった餌をつけて、
苦笑いでごまかしながら、また釣りを始めた。
今度は、一匹も釣れなかった。
まさに、釣りバカだ。


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死に直面して~その6~

2007-10-03 00:53:20 | 九死に一生物語

弟と草垣島に釣りに行ったときである。

夜仕事を終えて、その足で船に乗り、早朝まで釣りをして、あくる朝、何もなかったかのような顔をして仕事に行く。
ほとんど睡眠はないのだが、結構、体力には自信があった。
そんな生活をしていた頃の話だ。

星がとても綺麗な夜だった。
4時間ほどかけて、草垣島の岩礁に上陸。最高の釣り場だ。
引き潮のおかげで、岩には小さなアワビがたくさんいた。思わぬ収穫だ。魚もよく釣れた。

だが、喜びもつかの間、明け方から海が突然荒れだした。
10メートルを超える、フランスベッドと呼ばれる岩の上まで、波が叩き付け始めた。
すぐに漁船に飛び乗り、引き返すことにした。
だが、時すでに遅し。浸水だ。必死になって、水を汲み出す。
太平洋の水を汲み出しているようなものだ。
2月の海は冷たい。腕の筋肉が無感覚になった。船頭は真っ青だ。

大波をかぶりながら、船は沈み始めた。
SOSの無線を打つ。
これだけ波が高いと、ライフジャケットも役に立たない。
沈み行く船にしがみつきながら、一日が過ぎた。
完全に死を覚悟していた。
宮崎の海岸あたりに打ち上げられるのかなあ?なんて、苦し紛れの冗談で、ごまかした。

助けに来たのは、巡視艇サツマだった。波が高すぎて本船は近づけないので、キャッチャーボートにのり、5人の救助隊員が助けに来た。
ボートが付いた瞬間、情けない行動を取っている自分が恥ずかしかった。真っ先に自分から、ボートに乗ろうとしている。思わず躊躇すると、隊員の一人が、優しく、「大丈夫ですよ。みんな助かりますから誰から乗ってもいいんですよ」と、微笑んでくれた。
着替えがなかったので、灰色のカッコいい軍服のような制服をわけてもらった。

一昼夜明けて、鹿児島湾に入港したときには、マスコミのカメラが待っていた。情けなさと恥ずかしさで、タオルで顔を隠し、インタビューをすり抜けて、逃げるようにタクシーで帰宅した。最後の反省はただひとつ、次に遭難したときは、誰かを先に救助船に乗せ、後から自分が乗ること、その固い決意だった。


死に直面して~その5~

2007-09-26 17:53:58 | 九死に一生物語

フレッド・ブランドンは、僕の大切なアメリカの友人だ。
今は、アメリカで旅客機のパイロットをしている。

僕が大学を卒業して、大学の生涯教育学部に勤務している頃の話である。
彼の古里、ワイオミングに招待された。
とてつもなく広大な平原が広がる美しい州だ。
あちらこちらにバッファローの群れがいた。
交通の手段は、車以上に、セスナを飛ばすことが多い。近所に遊びに行くといっても、鹿児島から熊本まで離れているというような距離だからだ。

大自然を満喫して、一週間ほど過ぎた。帰りは、普通に飛行機で帰る予定だったが、彼がセスナを借りてきて、それでユタまで僕を送ると言い始めた。
セスナでロッキー山脈を越えるのは大冒険だ。

ワイオミングを飛び立って3時間ほど過ぎた。眼下には、バッドランドと呼ばれる九州全体ほどの何もない大荒野が続く。
突然、右翼がバキッという音をたててひび割れた。
セスナが回転し始めた。
その後、何が起こったのか覚えていない。

気がついたら、地面に激突したセスナと、痛い胸を抑えていた僕とフレッドがいた。
フレッドの操縦は大したもので、機体に破損はほとんどなかった。
僕も、彼も、無傷だった。奇跡である。
でも、この後が問題だ。この地から、歩いてユタまで行くのは死を意味している。食料は何もない。
彼が持っていたライフルはあるが、銃弾は数発しかない。
遥か向こうを野生のカモシカの群れが走って行った。
結局、飛行機を応急処置して、とにかく飛ばしてみることにした。
握ったこともない操縦かんを握り、二人の力で、なんとか離陸させた。
フラフラと舞い上がるセスナが、何回も落ちそうになる。
操縦かんを握った僕の手から流れる汗は、恐怖で水のようだ。
ロッキーの山を越える瞬間は、死んだと思った。
雪の山を吹き上げる神風がセスナを舞い上げ、九死に一生を得た。
風に乗ったセスナは、滑るようにユタの飛行場に着陸した。

僕らを心配して待っていた、僕のユタの友人、ローリーは物凄い剣幕で、「徹を殺す気か!」と、初めて会ったフレッドに噛み付いた。
そんなローリーだったが、二日後に、フレッドと、とても良い仲になってしまった。
男女関係とは、こんなものなのか?アメリカ人はわからない?色恋は?全然わからない??