先生の受難
先生という仕事は大変な仕事だ。人間相手の教育は、もっとも難しい学問かもしれない。教えてもらいたくないのに、教えようとする先生。教えてもらいたいのに、教えようとしない先生。学ぶ側の心を読みながら、教育は展開していく。生徒が何を考え、何を求めているのかを理解しないと、決して先に進むことはできない。一方的な教壇からの講義はもはや時代遅れだ。先生、受難の時代だ。教育は、まさに読心術の学問だ。先生は選ばれる時代になった。先生になりたいと思っても、いくら知識があっても、どんなに学生の気を引こうと努力しても、簡単に先生になれるわけではない。教職を希望するとき、身の程を知らないといけない。客観的にも、主観的にも、互いに自分を見極められる能力が求められる。教える側のあり方を語るときに、メダカの学校の話をよく引き合いに出す。はじめは、誰が生徒か先生か判らない。でも、やがて、一匹のリーダーが選ばれる。その先生たるリーダーに率いられて、他の学生たるメダカ達が続いて泳いでいく。俺が先生だと主張しても、誰も従わなければ、もはや先生の資格はない。今までの時代は、物知りが先生だった。これからは、物知り博士の地位を、コンピュータ先生がのっとっていく。通常の人間が記憶できる知識の何百倍もの、いや何千倍もの知識を教えてくれるコンピュータ先生が、さらに進化してヒューマノイドの時代が来る。人間先生の責務は大きい。既成の先生の形から、一日も早く脱却して、人間学を学んで欲しい。僕が唱える人間学とは、表現力、人間関係力、そして全体を見れる力だ。