先日のある会合で、西南の役の話題が持ち上がった。薩軍と中央政府軍(官軍)との近代史上最大の内戦である。双方の将は、同じ薩摩出身の西郷と大久保であった。そして、1868年の明治維新を向かえ、新しい時代となった。それから、第二次世界大戦が終わるまでの72年間は、日本にとっては戦争の歴史と言ってもいいかもしれない。日露戦争・支那事変・第二次世界大戦と話題は常に戦争だった。薩摩が中心となった明治維新、日本人が悪いから戦争を起こしたのだと主張する反戦運動の極左の考え方の正当性、全てが一つになって、教科書の上に登場することを敬遠された。登場してもホンのさわりだけである。歴史教科書とは思想教科書ではない。偏見ではない。史実を有りのままに学び検証することが学問である。センター試験で扱われない分野だと笑ってはいられない。近代史の中に日本の未来がもっとよく見える何かが隠されている。
諸行無常の響きあり
沙羅双樹(しゃらそうじゅ)の花の色
盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらわす
おごれる人も久しからず
ただ春の世の夢のごとし
たけき者も遂には滅びぬ
偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ」
平家物語の冒頭の件である。世の中に永遠に同じであり続けるということは何もない。常に変化して移り変わっていく。人は幸せの瞬間を手にした時、この幸せが永遠に続けばと願う。人は不幸を体験した時、この不幸から一日も早く逃れたいと願う。永遠に同じ状態が続くことがないから、人は幸せにも不幸にもなれる。喜びも悲しみも、永遠の時の流れからすると、一瞬の瞬きのようなものだ。人は一瞬のために生きる。一瞬のための喜びとは、いつも小さな目標を設定して生きること。目標に辿り着いたら、辿り着けた喜びを噛みしめながら、また次の小さな目標を立てればいい。小さな夢はやがて大きな夢になる。小さな目標を設定し続けることは、君が、幸せを永遠に感じることのできる唯一の方法である。
なぜ世の中に富める者と貧する者が存在するのか。怠け者と勤勉な者に差がつくのは当たり前だが、努力が報われないことの事例がほとんどだ。楽して豊かになる人、苦労して貧しくなる人、こんな矛盾が大手を振って歩いている。富める者の加減と貧しき者の加減にバランスがない。天井知らずに底なしだ。政治が悪い、社会が悪い、だから格差社会が生じるのだと巷はうそぶく。貧富の差は太古の時代からあった。富めるものと貧する者の格差が縮まることはないだろう。だとすると、より良い世の中を築き上げる方法はひとつしかない。富める者が貧しきものを支えられるほどの品格を持つことである。学歴とか何とかの専門資格を言うのではない。人徳、気品、リーダーシップなど、人間力が溢れ出る優れた品格である。武士の時代に、富める者としての武士が求められたものは、幼い頃から教え込まれたものは、それは、優れた品格を培うための厳格な教育であった。
「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」夏目漱石の名著、草枕のくだりである。世間体・縁・絆・面子・恥の文化が当たり前のように残っていた時代の話である。漱石が言う住みにくい世の中から、新しい時代に時が流れて、人は議論を楽しみ、智に働くことを当たり前とし、無情の心が大手を振って歩き、意地を自在に通せるようになった。近所付き合いとか世間体なんてほとんど死言になった。向こう三軒両隣、誰がどこでどんな仕事や生活をしているのか興味もないし、関係も持ちたくない。果たしてこれで住みやすい世の中になったのだろうか。こんな世の中を漱石ならなんと描写しただろう。