最近、森の緑が異常に深くなった。亜熱帯の鹿児島が熱帯の鹿児島に移り変わっていくようだ。植物層も変わってきた。熱帯の外来種が大手を降り、鹿児島の森を闊歩している。たくさんの二酸化炭素という食物を食べ過ぎた植物たちは、満腹過ぎて、体が飽和状態だ。自然にもバランスがある。調和がある。多すぎてもダメだし、少なすぎでも大変だ。人間ができることは、あるものをあるがままに観賞する喜びを取り戻すことだ。動植物が、存在すべきテリトリーを越えて、人間の刹那の喜びのために利用され、地球の生態系を乱してきた。いるべきはずのないワニが川を泳いでいたり、あるべきはずもないランの花が樟の木の合間から顔を出して咲いていた。大自然は、人間のわがままをいつまで許すのだろう。
優秀だとか、頭が悪いとか、よくも勝手に人の頭脳を測るものだと驚いてしまう。学校の成績が良いというのは、数百種の人間の能力の中のたった一つに過ぎない。成績評価のほとんどが、言い古されて古いのに、いまだに、記憶力という、僕が一番苦手とする能力で評価している。僕は、学校の成績はとても悪かった。高校時代は、後ろから数えた方が早かった。でも、自分では、頭が悪いと思ったことはあまりない。試験のやり方を少し変えると、天才といわれた人も、能力無しになる。人間の能力を測るやり方を根本から見直す時代になった。今までの知識は、コンピュータがほとんど教えてくれる。一時間で済んだ試験を一日以上かけて、いろんな側面から試験して、初めて人間の能力の優劣が見えてくる。僕は言いたい。記憶力とか、普通に試験されていることは、アプローチを少し変えると、誰でも克服できる能力であると。だから、落ちこぼれだなんて悩むのは愚かなことだ。僕らはみんな天才だ。
ジェームス・ラヴロックのガイア説ではないが、人間は地球という生命体の一部であると、屋久島を訪れるたびに実感する。屋久島の自然が奏でる子守唄は深い心の安らぎ。泣きたくなるほどに、生きていることの喜びを感じる。一人の生徒の頭の上をカマキリが歩いていった。何の違和感もなく、「ロマンだね。」、と呟いた。深い緑の山々と谷間を縫って流れ落ちる水、水、水。限りなく透明な水。天から落ちてきたような巨岩が高い山の頂点にどっしりと腰掛けていた。奇跡の島だ。真っ青な海は、屋久島の吐息。全てが一体となる空間だ。地球は生きている。9名の学院生と一人の職員、僕を含めて計11名が僕の屋久島の隠れ家、枯れ葉のようなロッジで2泊3日を共にした。島の鼓動は聞こえただろうか?