KONA WIND-南の風- iBS学院長・南 徹ブログ

アメリカ人に英語を教えていた日本人が外語学院を作った。その学院長が、日本を、世界を斬るブログ!!

なぜ苦しいの?

2006-05-30 17:47:42 | インポート

Dsc02107 なぜ苦しいの?こんな問いがあった。周りが勝手に気を使ってくれていた時代から、自分で意識して周りの人々の気を使わなければいけない環境におかれたからだ。学生生活を終えた若者が、職場という新しい社会環境の中で人間関係に苦しむ叫びである。自立していなかった子供時代は、望みもしないのに、余計なお世話と思うほどに、親や周りの人々が勝手に気を使ってくれていた。家庭の中で、居心地が良いとか悪いとか、そんなことすら考えなかった依存時代。他人のことを思いやる方法とか、気を利かす方法とか、そんな心の教育が、ほとんどの家庭の中から消えてしまった。家事手伝いすらしなくなった。忍耐を鍛錬する機会に恵まれなかった若者は苦しんでいる。そんな若者たちが、突然人間として生きていくための当たり前の世間に投げ出された時の苦しみだ。「Teaching is learning. 」と言う教えがある。「教えることは学ぶこと」という意味だ。先ずは誰でもいい、とにかく悩んでいる誰かがいたら、苦しんでいる誰かがいたら、愛の手を差し伸べたらいい。面倒を見てあげればいい。救いの手を差し伸べたらいい。駆け引きのない心で。その思いやりの行動が、やがて、君を苦しみから解放してくれる。


今しかできないことに・・・

2006-05-28 14:52:44 | インポート

Dsc02117_1 今しかできないことに夢中になりたい。今やりたいことに夢中になりたい。刹那的に聞こえるかもしれないが決してそうではない。時代は変わった。辛抱に辛抱を重ね、努力に努力を重ね、大学に合格するためにとか、資格を持っていると役に立つかもしれないからとか、安定した就職ができるようにとか、幸せな家庭を築くためにとか、否定はしないが、そんな風に、しかたなく、嫌々ながら、忍耐強く努力を重ねていく時代ではない。何の保障もない未来に向かって、やりたくもない努力を積み重ねることほど虚しいことはない。間違った一生懸命だ。努力することそのものが喜びでない努力は大した意味をなさない。既成の概念を飛び越えて、思い切って冒険をする時代だ。自分勝手に我が侭に生きろ!と言っているのではない。いま、君がやりたいことは何なのか?それを見極めることが大切だ。自分が幸せにならない限り、周りの人々を幸せにできるはずもない。冒険できない環境や境遇にある場合は、与えられた世界の中から如何に喜びを見出せるかを考えながら生きていくしかない。


ノーテンキ

2006-05-26 20:48:04 | インポート

Dsc02111 人は悩むために生まれてきた。ほとんどの人々がそんな悩みの中で生きている。一歩前進する度に様々な悩みの壁にぶつかる。かといって、そのまま留まっていたら、足に根が張って悩みの木になってしまう。そしてやがて枯れてしまう。生きるためには、悩みながらも前進するしかない。悩みの壁を次々と壊しながら前進するしかない。悩むと言っても、深く悩む人と、たいして悩まない人とどちらが幸せか?もちろん、深く悩まない、いわゆる、ノーテンキな人が幸せに決まっている。悩むなとは言わないが、悩みは心のあり方の問題だ。悩むことが趣味なら仕方ないが、悩まないですむなら悩まない方がいい。結局は、君が悩もうが悩むまいが、周りの人々は、痛くも痒くもないのだから。悩みの壁を壊す方法とか、心のあり方を磨く方法とか、悩みを必要最小限にする方法がある。それは、そのままの状態で留まらないことだ。行動することだ。勇気を持って、失敗してもいいから前進することだ。失敗しても、留まって悩んでいた君よりも多くの知恵を手にできる。悩むことで何か利益があれば別だが、ほとんどの場合、損益しか生じない。ちょっと、ノーテンキになって、もっと人生を有意義に楽しんだほうがいい。


自慢じゃないけど!僕の授業風景

2006-05-25 19:18:04 | インポート

Dsc02117 Dsc02120 学院の昼間のクラスで、Japanese Culture and Soul Natural ScienceView Point in Law の三科目を教えている。日本語に訳すと、日本文化、自然科学、法と裁判ということになるだろうか。日本文化の講座では新渡戸稲造先生の「武士道」と金田一春彦先生の「日本語のこころ」を英語の世界から客観視し、我々日本人自身の文化や考え方を再分析してみることを学ぶ。自然科学の講座では生き物の世界と人間との関係を環境の立場から学び、法と裁判の講座では裁判の実際の事例をテーマに論法を学ぶ。入学してくる学生の殆どに言えることだが、実学に疎い。生きていくための知恵に欠ける。資格試験や点取り作業の知識には卓越しているが、生きていくための知恵が欠如している。コンピュータに記録されている情報を知識として再度学習するような授業がほとんどだからだ。点取り虫は機械と同じ。人間は機械ではない。人間でなければ学べない学問を学ぶことが生きる知恵であると伝えたい。人間学を学ばないと、狡猾な人々に操られてしまう。依存的で、右へ習えの人々は操り人形と同じだ。不必要になれば簡単に捨てられる。


テレビメディアの間違った公平

2006-05-23 23:51:16 | インポート

Dsc02106_2 今日もテレビで、自国、日本非難報道が公開されていた。テレビのニュースの報道の在り方について疑問に思うことがある。僕ら日本人の話題や理解度がいつも同じだからだ。ニュース、考え方、事件、出来事、そして犯罪者に同じような判断判決を下す。全てのテレビ局が同じ考え方で報道しているからだ。一党独裁的な頭脳で世の中を見てしまう。考えることを好まない人はなおさらだ。テレビで報道されているのだから間違いないと簡単に判断してしまう。物事の善悪是非をテレビの力で洗脳されてしまう。小学校、中学校、高校、大学と、同じような能力を持った人々と同じ環境で、同じような教育を受けさせられながら育ってきた大方の日本人は、異なる考え方にさらされたことがない。異なった世界に嫌悪感さえ持つ。だから、テレビ報道も絶対視してしまう。どのチャンネルをひねっても、表現の方法は、キャスターによって多少の違いはあるが、内容そのものは何も変わらない。だから、大方の日本人は、何の疑問も持たずに納得する。無理もない。他国から、右へ習いの日本人と揶揄されてもしかたない。アメリカのニュース番組にCNNとFOXという全米を代表するニュース番組がある。対極の番組だ。ブッシュ大統領を支援するアメリカ国民のほとんどがFOXを支持し、そうでない人々はCNNを支持する。日本もそんな形の報道のあり方を望むのは僕だけだろうか。