KONA WIND-南の風- iBS学院長・南 徹ブログ

アメリカ人に英語を教えていた日本人が外語学院を作った。その学院長が、日本を、世界を斬るブログ!!

大自然の中に人の顔

2006-11-30 20:57:49 | インポート

Dsc00010_1 最近、自然の中に人の顔を見ることがよくある。人工物の中には決して存在しない顔である。砂浜の風景の中に、岩石の一点に、木々の幹や枝の表面に、動物の体の一角に、緑の葉の中に、青空の雲の中に、至る所に人間の顔が見える。人類が地上に現れてから700万年の年月が流れた。数え切れないほどの人間たちが死んでいった。死んだ屍は土になった。全てはエネルギーと言う形で存在するわけだから、屍は土になっても、学習して培った、気、知識、知恵は無になるわけがない。かといって、宗教と言う形で、簡単に片付けてしまうのも問題だ。では、この気、知識、知恵はどこに、どんな形で残されているのだろう。これらを一括して魂と呼ぶことにしよう。この魂が宿れるのは大自然の中だけだと思う。魂が本当に安らげるのは大自然の中だけだと思う。木々の緑や、透明な小川の水、青い海の中、そして、その真っ只中で戯れる動物たち、全てが人間の魂の宿。でも残念なことに、魂の安らぐ場所が毎日のように破壊されていく。魂の宿が消えていく。安らぎを見つけられない魂が叫び始めた。至る所で顔を出し叫び始めた。出したくない顔を出して叫び始めた。この叫びが限界に来たとき、母なる地球という大地と共に、人類は突如として消滅するかもしれない。


いじめの解決法

2006-11-27 12:00:09 | インポート

Dsc02165_1 毎日のようにいじめの問題が至る所で議論されている。セクハラ、パワハラと、基本的人権が少しでも侵害されるとハラスメントと言われる時代である。同じ言動でも、同じ行動でも、人によりハラスメントだったり、全く逆に愛情の表現だったりする。問題なのは、個人差はもとより、学校外での生活レベル、教育レベル、社会的格差、家族内児童対応格差など、どうしても避けられない現状が歴然としてあるのに、学校教育の中では、受験等の資格試験を中心とした、画一された指導しかできないカリキュラムに問題がある。戦前に修身という科目があった。強いものが弱いものを守るというような、美しい心の在り方を徹底して学ぶ科目である。こんな科目を必修科目として、個性を中心に教える指導法から、供に支えあう、共存の意義を中心とした科目を早急に立ち上げる必要がある。修身と聞くとアレルギーのように、戦争犯罪と直結したがる人々がいるが、それは日本人そのものの否定である。日本人はそんなに愚かな民族ではない。何の資格も手にするわけではないが、素晴らしい学生時代だったと思えるような、生きることをテーマとした学校が必要だ。旧制高校のように、寝てもさめても生きることの意義や哲学を議論し合えるような教育の場を復興して欲しい。素晴らしいリーダーを育てる事を意識しながら、互いに支えあう共存の中から、いじめがいじめではなくなり、本物の美しい個性が生まれ、一人一人がその能力、個性に応じて、素晴らしい主人公になれると思う。諸外国の教育の在り方と比較して日本を非難する学者がいるが、明治の時代に多くの先進国が日本の教育の在り方に学んだことを思い出して欲しい。ボーイスカウトが良い例だ。日本の教育のあり方から、イギリスが学んで作り上げたシステムだ。我々日本人は、こんな時代だからこそ、日本の歴史や文化を再度見直して、日本人の心の原点に返るべきであると思う。


空気を読む

2006-11-25 12:53:19 | インポート

Dsc02150 いじめがあったり、問題児が現れたりすると、「空気を読めないからだ!」と短絡的に言う人がいる。生きて行く中で、空気を読むことほど難しいことはない。我がままで、頑固な、ひねくれ者が、周囲の空気を読まない、いや!読みたくないと主張していることとは問題が異なる。しかたなく周囲の考え方、行き方に自分を合わせないといけないわけだから、周りの人々と異なる生き方をしてきた人々にとってはかなりの苦痛が伴うだろう。彼らは、今までの人生を無視しないといけないからだ。健康上の問題や、精神的な問題で、どうしても回りに合わすことができない人もいる。ただ単に、どうしたら空気が読めるのだろうと悩んでいる人もいるし、努力しているのに認められない人もいる。「空気を読む」ための学習が必要となる。そんなことは、教えなくても察するべきだと言っている人自身が、すでに空気を読めない人なのかもしれない。


人は、なぜ働くのか?

2006-11-23 16:52:07 | インポート

Dsc00007_1 「働く」の本来の意味は、傍(はた)を楽(らく)にしてあげるという意味から、「働く」となったと教えてもらった。周りの人を幸せにしたいと思って働くと、ついては、自分も幸せになれるというわけである。最近、世の中が日増しに殺伐となっていく。生きるためにしかたなく、そんな感じで仕事をしているか、させられているか、どう考えても、人間らしく生きているようには思えない。生きる喜びを感じられない。学校で一生懸命勉強するのも、苦しんで仕事をするためにあるとしたら、何かが間違っている。人は、幸せになるために学問の探求をする。教育基本法の原点は、生きることの喜びを見つけるため、そして、人は何のために働くのかを教えることだと思う。


外国で培うハングリー精神

2006-11-22 11:46:59 | インポート

Dsc02108_3 Dsc02114 Dsc02148 Dsc02136 オーストラリアはパース市との本学院比較文化研究学院生姉妹都市交流を始めて25年になる。あっと言う間の25年であった。今年も第32期生が意気揚々とデビューした。研修所は、西オーストラリア州立大学クレアモントキャンパスである。乗馬、世界の秘境ピナクルズ観光、真っ白な砂丘を巨大な四輪駆動車で大滑走と、先ずは楽しい思い出づくりで始まった。そして研修は始まる。一番の葛藤はホームスティ、何人かの学生が高校時代に体験したホームスティとはかなり異なる。異文化体験と自分の成長のための体験が始まる。ちやほやと、自分中心に、好き勝手に生きてきた若者たちは、だらしない自分の姿を鏡を見るように見せられることになる。そうでない学生も、今までの自分の世界の狭さと、異なる文化に生きる人々の考え方を如何に受け入れたらよいのか。こんなことが、国際社会の中ではごく当たり前のことと気づくようになる。そして、深く反省する。この反省が、お金に変えられないほどの財産となる。もう国内では学べない、日本の若者の実践的、体験的、ハングリー精神を培うためのデビューが始まった。ハングリー精神を学んだか否かが、これからの厳しい時代を生き抜くための鍵となる。