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伊勢すずめのすずろある記

伊勢雀の漫歩…。
 伊勢の山々から志摩の海までの、自然史スポット&とっておき情報など…。
  感性の趣くままに-。

伊勢・志摩・度会の石紀行 その5 伊勢市五十鈴川の「神足石」

2017年03月29日 | 伊勢・志摩・度会の石紀行


昭和年代に採集の五十鈴川産の「神足石」~ 左の最長標本のサイズ 約11cm

 今年は、三月に入ってから20日間程、雨らしい日がなかったせいか、五十鈴川の水量が日増しに減って行き、春分の日を前に浦田橋から下流の御側橋(おそばはし・伊勢市中村町)にかけての広々とした川原がさらに干上がり、その間の3分の2以上のスペースが、対岸まで歩いて渡れるようになった。
 例年なら水没し川床となっている場所も、水垢や川泥に覆われた転石がゴロゴロと露出し、水流が全く無くなり乾燥しきっていたので、内宮への参詣客や行楽客も、両岸の駐車場から川原に降りて横切り、頻繁に行き来をしていた。


三月に入って、対岸まで完全に干上がった五十鈴川の川原 ~ 3月20日撮影


 春分の日の20日は、寒さの和らいだ春らしい好天となった。ここ数年来のこの絶好の機会にと、「神足石」(しんそくせき・じんそくせき)を探しに、朝からこの五十鈴川の川原に降りてみた。
 浦田橋から御側橋までの距離は、優に500m~600mはある。だだっ広い広場となった川原を上流方向に、布バケツを片手に歩くのは小生唯一人であるが、浦田橋付近では何組かのカップルや、親子連れらも川原に降りて遊んでいた。


水流の途絶えた、御側橋付近の五十鈴川の堰堤 ~ 3月20日撮影


 「神足石」は、江戸時代(寛政年間)に地元民の山中明海(やまなかめいかい。当時の著名な本草学者・小野蘭山に師事)によって発見された、「人の足形」をした特殊な形状の奇形侵食礫である。
 江戸時代の旅行ガイドブックで、版画入りの地誌でもある「伊勢参宮名所図会」(寛政九年刊行の巻之四)には、足袋(たび)の裏面を見るような図入りで、「五十鈴川の川上に神足石と号(なづけ)し物あり、近頃此(ちかごろここ)宇治の郷人(さとびと)山中明海の得る処なり…」と記されている。
 さらに、「勢陽五鈴遺響」(天保4年)や「神都名勝誌」(明治22年)、「三重県植物誌」(昭和7年)、「伊勢神宮植物記」(昭和36年)など、その後の発行書物にも、神足石は「五十鈴川の奇石」として度々紹介されているが、小判型をした亜角礫~亜円礫の長軸方向の一端に、V字の欠刻を有する足形の転石である。サイズはまちまちながら、角閃岩や輝緑岩、ヒン岩、斑れい岩、輝緑凝灰岩、砂岩等に頻繁に見られる他、チャートなどにも若干見られる。


「神足石」の産する浦田橋下の川原から眺めた、五十鈴川上流方向の新橋 ~ 3月20日撮影


 これらの中には偶然に生じたものもあるが、角閃岩などの緑色岩については、同様の形状の河床礫の産出頻度が余りにも多すぎるので、五十鈴川に限って見れば、その形成に地質学的な因果関係を感じない訳にはいかない。
 井桁を押しつぶしたような状態で交差する節理に支配された、ひび割れや剥離面の一端が、差別侵食を受けて欠刻となった状態のように思え、必然的に生じたものと考え、かつてこの「神足石」について調査・研究し、その結果を小論文にまとめて、「地学研究」誌(日本地学研究会発行)に発表した事がある。
 (「伊勢の奇石・五十鈴川の神足石」 地学研究 1990年 Vol.39,No.2、及び「続・五十鈴川の神足石」 地学研究 1992年 Vol.41,No.2 参照 )


宇治橋の上流・法度口にある「飛び石の堰堤」~ この辺りが「神足石母材」の供給源である


 神足石や同質の岩盤が分布するのは、宇治橋の上流約1~2kmのエリアであり、伊勢神宮の宮域林(神路山・島路山)の小谷等から供給される、交差する節理を有する現地性の岩石片(風化母材角礫)が川流れの転石となり、五十鈴川の適度な水流と平坦化した川床の程よい研磨と溶食作用を、長年月にわたって受けながら流下し、川原の奇形礫となったものとの結論に達した。


「神足石」の出来かけの小礫(右)と、形成後に破断し下半の欠損したハート形の小礫(左)


 神足石は、江戸の昔より参詣客らによってかなり拾われたらしく、現在はきれいな形のものは数少なくなったが、全く拾えない訳では無い。中にはハート形のものもあって、「伊勢の奇石」として昭和40年代の石ブーム頃には、地元の愛石家らも好む処となり、赤福の菓子箱に添付の版画の栞にまで登場している。


3月20日に採集した、比較的美形の「神足石」~ 左の最長品のサイズ 約18cm・3個とも緑色の角閃岩


3月20日に採集した、手のひら大の美形の「神足石」~ 輝緑凝灰岩・サイズ 約10cm


 この日は、約2時間ほどの探石で、結構きれいな神足石数個と、鑑賞に値する小物水石を幾つか揚石したが、干上がった川原の全スペースを見回った訳では無く、御側橋から浦田橋にかけての川原を直線的に歩いて往復しただけで、言わばピンポイントの下見であった。
 後日、再度の探石をと思っていた処、あいにく一日後には雨天となって増水し、干上がった川原も普段どおりの水底に逆戻りをしてしまい、残念ながら未調査のスペースは水没してしまった。




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伊勢・志摩・度会の石紀行 その4  伊勢市前山町 「式部塚の御神石」

2016年09月30日 | 伊勢・志摩・度会の石紀行


前山町の道路際にある式部塚

 9月初めのブログで、前山町の「養命の滝」について記し、その入り口付近の道路際に「式部塚」がある事に少し触れたが、この小じんまりした樹林の中に、形の良い庭石サイズの大きな石が3個鎮座している。
 大・中・小と別々に注連縄を纏い、それぞれが白石の敷かれた石積み囲い中に、御神石として祀られている。

3個の御神石を祀る、遊具のある樹林の敷地


 石の祀ってあるこの樹林は、小学生の頃からここが式部塚だと教えられてきた場所なのだが、実際の「塚」は、この目前の石段を上った地山の上にある、養命神社の境内だとも言われている。

養命神社に上る石段

山上にある養命神社の境内


 これらの石の由来や、いつの頃からあるのかなどは良く解らないが、庭石や水石を眺めるような感じで、3石共明らかにすぐ前を流れる亀谷郡川(かめたにごがわ)から揚石された、現地性の転石のように思われる。

 明治期に記された著名な郷土誌である「伊勢名勝志」(明治22年11月10日 出版、著者 宮内黙蔵)には、度会郡の「古墳」の項に、

 和泉式部塚 ~ 前山村字亀谷郡ニ在リ今、林地タリ藤原保昌ノ裔建立スト云フ後、塔ヲ山田吹上町光明寺舊地ニ移セリ 〔宮川夜話〕

 とだけ記述されている。


富士山形をした一番大きな御神石


 さて、これらの御神石の形状や石質であるが、一番大きな富士山形の尖峰を成す巨石は、石英片岩で、独立して祀られ、サイズは裾の幅が概ね1m、高さは底が地面に埋没しているので1.2 m以上はある。

隣り合わせに祀られた中・小の御神石

 他の二つは、隣り合わせて祀られており、右側の中サイズの立石形の巨石は、かなり苔むしているが、後述の左側の一番小形の餅を重ねたような、鎧状の平べったい石と同じ岩質である。最大幅は約 70cm、高さは底が少し埋没しているが概ね1m 強である。

立石形の中サイズの御神石


 3個の内の最小サイズの石は、茶褐色のサビを噴いているが、朝熊山上や朝熊川でよく見る「朝熊石」と同じ石質で、明らかに蛇紋岩化した橄欖岩又は斑糲岩である。外観は段石風の丘陵形を成し、サイズは見かけ上、幅約 60cm、高さは 40 ~ 50cm 程度である。

段石風の丘陵形をした、一番小さな御神石


 ちなみに、敷地には子供の遊具である鉄棒や滑り台、ブランコが設置されているが、殆ど遊びに来る子供らはいない。
 又、式部塚の事や、鎮座するそれぞれの神石の謂れなどを記した立札等も無い。



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伊勢・志摩・度会の石紀行 その3 伊勢市中之町の「葛籠石」(つづらいし)

2015年12月16日 | 伊勢・志摩・度会の石紀行

伊勢市中之町にある、現在の「葛籠石」
 

 伊勢市内で、古来の名物岩と言えば、まず、名勝・二見ヶ浦の「夫婦岩」であろうが、市街地にも昔から著名な「葛籠石」(つづらいし)と言う巨石がある。
 その所在地は古市に隣接する中之町内で、現在安置されている場所は、麻吉旅館横の石段の小路(昔は「御岩世古・おいわせこ」と呼んでいた)を下った先の、高速道路沿いの側道に出た曲がり角である。すぐ横向かいに、麻吉旅館の第2駐車場がある。ここは、古市からの旧道沿いにある寂照寺の裏藪斜面の真下で、その真正面が側道の信号交差点(三叉路)である。
 高速道路の工事の際に、元あった場所から移動させて、現在の位置に鎮座させた経緯がある。


祠の後ろの「葛籠石」の最大岩

「浅香つゝ゛ら稲荷」左サイドの鳥居

右斜め後ろから見た「葛籠石」


 芝草の中の幅約5m × 10m 四方のスペースが、「葛籠石」を御神体とする「浅香つゝ゛ら稲荷」の境内として、葛籠石と同質の石垣石ほどの岩塊20数個で区画され、石で囲まれたちょっとしたこの境内の中央に、「葛籠石」が鎮座している。
 巨石は大岩を真ん中に大小3つあり、大岩の前には祠が置かれ、畳ほどの板状石の祭壇にはお供えものがあり、石にはいずれも注連縄が張られている。境内の左サイドには鳥居も一基立っている。このお稲荷様を祭る敷地には、白石が敷き詰められ、鳥居から祠の正面にごく僅かな参道がついているし、祠の右に繁る大きな楠の他、数本の木立が巨石を囲むように植えられている。
 鳥居横の側道沿いには、「浅香つゝ゛ら稲荷 由来記」と題した説明書きの立て札がある。

立て札に記された「浅香つゝ゛ら稲荷」の説明書き


 さて、大小3つある葛籠石の石質は、いずれも石英片岩の一枚岩で、畳を横に立てたように据えられている。
 これら巨石の大きさであるが、石の底はいずれも60cm以上敷地の土にめり込んでいるので、高さは正確には解らないが、地上に出ている部分についての計測値は、屏風状になっている中央の最大岩は左右の横幅が約5m、石の厚みが0.9~1.2m、高さの最大値は2.2m(以上)ある。
 この岩塊に向かって左右の2個は、左側の岩塊が横幅が約1.6m、石の厚みがおよそ0.3~0.7m、高さの最大値は1.4m(以上)である。右側の岩塊は横幅が約3.2m、石の厚みがだいたい0.65~0.70m、高さの最大値は1.6m(以上)である。


明治期の版画「高樓聚達景」に描かれた、当時の樓閣・麻吉と葛籠石(左下)

伊勢すずめ所蔵の上掲版画の「葛籠石」のアップ


 この「葛籠石」については、江戸時代以前の昔から知られていたようで、郷・里村や街道筋によく見られる名物岩・謂れ石の類である。その名の由来は、殆どの古文書や郷土誌・史に、「石重なりて葛籠の形に似たり」とある。現状は、とても葛籠の形には見えないが、定説に従えば、かつて古市のはずれ(旧、仲之地蔵町)の丘陵地の斜面か上面に、露岩のような状態であった頃は、二つの長方形の板状の大岩が斜めに重なっていて、その形状が葛籠のように見えたのかも知れない。

 当地の葛籠石は、伊勢国の最初の地誌本である「勢陽雑記」(初版 明暦二年頃・1656年頃)や「伊勢参宮名所図会」(寛政九年・1797年)、「勢陽五鈴遺響」(天保四年・1833年)等、明治期以前の古文書や図会にその記述を見る他、爾来の版画や刷り物等にも数多く描かれている。

 「勢陽雑記」には、「葛篭石 ツゝラ石 あひの山中の地蔵にあり。一丈四方程なる石重なりてつゝらの形に似たり。しめを引く。小社也。伊勢風土記にも此石の事あり云々。」とある。


伊勢参宮名所図会に見る「葛籠石」の頁

「伊勢参宮名所図会」に描かれた「葛籠石」のアップ


 「伊勢参宮名所図会」には、「葛籠石 中地蔵町東の方二町許にあり、此のところも長峯といふ。高さ八尺余、横二丈許、石重なりてつゝ゛らの形に似たり、今は注連(しめ)を引て小社とす、此傍(かたはら)に観音堂あり、是を大岩の観音といふ、春は櫻多く咲いて騒客遊宴(そうかくゆうえん)の地とす。」と記述されている。

 「勢陽五鈴遺響」には、さらに詳しく次のように記述されている。

 「葛籠石 同所観音堂ノ南民家ノ傍ニアリ此小路ヲヲイワト名ルハ此巌に拠テ称スナリ 注連縄ヲ引テ神祠ノ如ク土人祭レリ崇敬シテ御岩ト云高八尺余長二丈許其状葛籠ニ似テ方形ニシテ蓋アル如シ今詳ニスルニ地上ニ突出スル処ハ纔ニシテ其根磐ハ土中ニ数丈連リ入テ一磊ノ巨嵒ナリ其土入ノ祀レル処ハ其地ヲ遺失セサランカ為ニ此挙ニ及ヘリ其所伝ハ未詳トイヘトモ正国保(□は文字転換不能の漢字です)中ノ探リ尋ラルヽニ拠テ其嵒ヲ得タルヨリ新ニ奇石ト称スルニ至レリ其ノ前世ニ此石に名アルコト旧録ニ未詳勢陽雑記云間ノ山中ノ地蔵ニアリ一丈四方ナル石重リテ葛籠ノ状ニ似タリ注連ヲ引小社ナリト云… (以下省略)」

 古市町から中之町を経て桜木町に続く旧道筋の台地~丘陵地は、古名を「長峰」(ながみね)と言い、この界隈の地質は高位段丘堆積層であるが、中央構造線に接するすぐ南の「西南日本外帯地質区」に属する。
 従って、この段丘堆積層の基盤岩は、石英片岩を含む三波川変成帯の結晶片岩や千枚岩類で、これを不整合に覆う上層の更新世時代の砂礫層は、明らかに五十鈴川等の河川堆積物であり、かつての川原や中州がその後の地殻変動によって離水した、隆起地形である。
 それゆえ、葛籠石のような岩塊は、河川によく見られる川床や川岸の岩盤等から離脱した、現地性の「根無し岩」であろう。このような岩塊は、今の五十鈴川の随所にかなり散在している。

「葛籠石」のある寂照寺(中央上)付近の古い地形図~大正7年発行、2万分の1の地形図より


 後になったが、以前に読んだ民俗学の書物には、この「つづら石」の語源は、日本全国各地のどこにでもある「霊石」のような巨石の一つであり、「津々浦々の石」(つづうらうらのいし)から出た言葉だろうとの推測があった。しかし、古文書等に記された記述を読み取る限り、「石重なりて」とあるので、古くは大小の長方形~板状の石英片岩の巨岩が、どっしりと重なっていた事は確かである。これらの石の表面(石づら)は、現状から見てほぼ平坦であったはずである。

 古文書には、「伊勢風土記」にもその記述が見られるとあるので、語源について突き詰めて考えれば、石の呼び名の「つづら」の言葉が先か、行者(修験者)が背負う衣類を入れる柳行李のような、収納具としての「葛籠」(つづら)の用語が先か、と言う事になる。
 もし、庶民が道具として「葛籠」を使い出したのが、後年の事であれば、「つづら石」の語源は「面々石」(つらづらいし)であり、その短縮形が「つづら」になり、いつの頃からか「葛籠」に転じたのではあるまいかと、考えてもみる次第である。


 ちなみに、三重県内には、似たような地名に「ツヅラト峠」がある。ここは、度会郡の旧大内山村と東紀州の紀伊長島町(北牟婁郡)とを、嶮しい山稜で境する熊野古道(旧街道)の峠路である。この地名の由来は、「山々が連なる様」など諸説あるが、山越えの峠道に多い「九十九折り」から来ているとするのが定説らしい。類推ではあるが、この「ツヅラト」の語源は、「九十九徒歩」(つづらとほ)から生じたのかも知れない。


麻吉旅館の横から「葛籠石」へと下る「御岩世古」

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伊勢・志摩・度会の石紀行 その2「猿田彦石」~ 伊勢市二見町江(え)

2015年03月27日 | 伊勢・志摩・度会の石紀行


二見町江の「猿田彦石」

 春の彼岸が過ぎ、開花した桜花が見頃となって、ほのぼのとした花見のシーズンとなった。二見町の太江寺に動物霊の供養に、彼岸の塔婆をあげに行ったついでに、町内の名物岩を眺めてきた。昨年から綴り始めた石紀行の続きとして、太江寺の真下にある「猿田彦石」を取り上げてみよう。  
 伊勢市二見町は、立石にある興玉神社境内の海岸に「夫婦岩」(めおといわ)があり、天下の名勝として知られているが、町内には他にも、数々の名物岩や謂れ石(いわれいし)が点在する。 その一つが、江の町内にある「猿田彦石」である。  鳥羽方面に向かって、新二見トンネルを抜け二見プラザを過ぎた先の、国道167号線の信号を右側に曲がって、江の在所に入る細い町道(朝熊路・あさまみち)を200mばかり行くと、右手に「江コミュニティセンター」があり、この前に露岩と思われる大きな石が鎮座している。 すぐ東の江川(えのかわ)に架かる「日乃出橋」を渡って国道に抜ける、町道の分岐するT字路交差点の曲がり角に当たる。ここは太江寺への登り口のそばで、巨岩の前には表示板が立っている。 この猿田彦石は、その形状を興玉神社の御本尊でもある「猿田彦大神」に見立てて、古来崇拝されて来たが、今は謂れ石にすぎない。  江川の対岸にかつてあったと言う、「猿田媛石」(さるたひめいし)と対を成すものであったらしいが、この猿田媛石は今は見られない。 猿田彦石の大きさは、幅(長径)約7m、周囲約20m、高さ約3m程の緑色岩(岩質は角閃岩と思われる)で、概ねお椀を伏せたようなのっぺりした恰好をしており、表面は丸くなって少しツルツルしている。かつては、子供らが「滑り台」代わりに遊んだのか、郷村内の良き遊び場となっていたのだろう。
 当地、二見町には、かつては立石の沖合い約700mの海中に、「興玉石」(興玉神石・おきたまかみいし)と言う、神社の御神体を成す霊石(岩礁のひとつ)があって、引き潮時には海面にその姿を見せていたと言うが、今は激しい海食等によって水没している。 夫婦岩は、現在では夫婦円満の象徴と供に、日の出の遥拝岩として著名になったが、元々は「興玉石」を拝む為の門石(もんせき)であったものだ。  町内の陸域には、他にも幾つか名前の付いた巨岩や巌があるが、「烏帽子岩」や「退石」(しざりいし・すさりいし・さがりいし)、「天狗石」(伊勢三郎の力石~ちからいし・義盛の力石)、「御座岩」などは、河川の改修や埋め立て、臨海地の整備等で、今は姿を消している。 二見町溝口にある、五十鈴川東岸の「破石」  それでも、溝口の五十鈴川(汐合の本流)の東岸には「破石」(われいし)があり、又、三津の裏山には「硯岩」(伊勢三郎の硯岩)があるから、ちょっとした散策のついでに足を延ばし、ひと目見ておくのも一興だろう。

二見町三津の裏山にある「硯岩」
町道の道端に立っている「硯岩の表示板」の説明

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伊勢・志摩・度会の石紀行 その1 「乙女岩」~ 度会町川上

2014年04月16日 | 伊勢・志摩・度会の石紀行


県道151号線より眺めた、川上村落上方の「乙女岩」

 伊勢志摩国立公園の自然は、リアス式湾入の織り成す海岸美の景観と、伊勢神宮界隈の濃緑(こみどり)に包まれた、千古の神々しい深山幽谷から成り立っていると言っても過言ではない。又、当地方には独特の風習や文化があって、古来当地方を訪れる人々を魅了し続けてきた。
 古文書にも色々と地誌や歴史、民俗の事などが自然物と共に記され、由緒ある寺社仏閣から史跡、名勝、山、川、原野、濱海、池泉、樹石、洞窟、古墳、邑里の事などが、詳述されている。その文献のひとつに「伊勢名勝志」があり、他にも「勢国見聞集」や「伊勢参宮名所図絵」、「南勢雑記」などがある。

乙女岩の上からの眺望

 さて、我輩は以前からこれらの古文書に出ている、謂れのある石や名物岩に興味を持って、それらの所在地を探訪して来たが、見過ごして来たものも幾つかある。
 当地方には、二見ヶ浦の夫婦岩をはじめ、五十鈴川の上流には「鏡石」があり、「鸚鵡石」(志摩市磯部町恵利原、並びに度会郡度会町南中村)や葛籠石(伊勢市古市町)、獅子岩(伊勢市横輪町)、燧石(度会郡度会町火打石)、乙女岩(度会郡度会町川上)など、チェックをして行けば切が無い。これらの中には、伊勢神宮や倭姫伝説にまつわり、神聖視されたものも少なく無い。
 「勢国見聞集」によれば、当地には鏡石、葛籠石、鸚鵡石など「勢州八奇石」と言うのがあると書かれている。とにかく、伊勢志摩から奥伊勢(度会郡)にかけては、数々の鎮座石や巌(いわお)があって、その伝説や伝承が絶えない。

 四月も半ばとなって、好天が続いているので、一之瀬川に沿って度会町の南中村まで県道22号(伊勢南島線)を遡ってみた。南中村からは、林道のような藤越えの県道151号(度会大宮線)が分岐している。この道は頻繁に通っているが、ついつい見過ごして来たのが、川上の村落の真上に見えている「乙女岩」である。 藤越えに至る途中には、倭姫ゆかりの「川上の清水」(ブログのバックナンバー・2013年11月12日参照)があって、地元民には良質の名水として庇護されている。
 4月14日、昼少し前のうららかな日和の中、村内の案内板に従い、思いきって乙女岩に行ってみた。

村道奥の「乙女岩への登り口」

 村道を奥に入った道沿いの山裾に、登り口の案内表示があった。登山道のような急坂の細道が続き、周囲には白チャートの露岩やガレ石が散乱している。歩く事約5分、岩場にたどりついたが、久しぶりの山歩きに体は汗ばみ、一気に登りきったせいか息切れがした。岩によじ登るのにチェーンが垂れ下がっていた。
乙女岩に登るのに取り付けられているチェーン 露岩の上は、小広い方形の畳敷きのような平台で、この白チャートの一枚岩からの眺めは、倭姫の休息地の一つと言われているだけあって、眼下の田畑や里山(さとやま)が一望できた。広さは目測8m×6mぐらいであろうか。
 勢国見聞集 巻十六(名石之部)によれば、「乙女岩 倭姫命、皇大神宮の御宮所を尋歩行給ふ時、御遊覧の岩なり。巓場(てんば)甚広くして、畳を敷きたる如くかの筋あり。又、一段低き所あり。是は料理を仕て、倭姫命に献じ奉りし跡と云。滝川某、此所にのぞみ一見せしが、誠に珍敷岩なりと被(注:レ点入る)語ける。」とある。

畳敷きのようになった「乙女岩の上面」

岩の上に咲いている「山ツツジ」

 ちなみに、度会町の脇出に隣接する和井野(わいの)と言う所にも、倭姫の休息地とされている「ほこら」があって、参道に鳥居が立てられている。ここの地名は、「侘び野」の転化とも言われている。




 

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