お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

手垢のついた言葉

2007年05月09日 | 仏教
 池田晶子さん と 大峯顯先生の対談集 「君自身に還れ・知と信を巡る対話」 本願寺出版社 
を読んでいるのですが、その中で大峯先生(浄土真宗僧侶で大阪大学名誉教授)が言われていること。

 「言葉が人間の手あかにまみれてしまっている」
 「真宗教団だけじゃなく、すべての既成の教団が今直面している根本の問題です。」「浄土とか仏とか信心というものにも人間の匂いが付いてまわっているんですね。そんなものありがたいはずがありませんよ。」

 そうなんです。斜に構えて仏教をお聴聞していた若い頃の私にとって、布教使さんが当然のように使われる「浄土」「仏」「本願」「救い」「念仏」「信心」なんて言葉が、私の頭でうわすべりして、「何がありがたいんだか」全くこころに響いてこなかったんです。

 仏教では、肝心の大切な言葉なのに、その言葉に対する自分のイメージ・思い込みが先に立って、僧侶方がその言葉を口にされる度に、
「はいはい・・・また、お坊さんの抽象的な、わけのわからん話が始まった・・・」
と、しらけていました。(仏教なんて人ごとで、自分は賢いと思っていましたから・・・)
 そこで、ご住職さん方(まずは、ウチの住職さん)にお願いです
 若い方の集い、それも、しぶしぶ参加してくださっている方々を前に、ご法話をしてくださる時は、安易に仏教専門用語を使わないでくださ~い

「念仏にかおる家庭をきずき・・・」なんて聞いただけで、アレルギーなんです。
 私は寺に嫁に来ちゃったから、役目上、仕方なく「繰り返し」お聴聞して、「ああ、そういうことか・・・」と気づかされたのですが、たま~に、たまたま法話を聞いてくださった方が、「???」では、「また、お話を聞いてみたい」とは思われないだろう・・・ 
 
 まず、手あかのついた「言葉」の垢を落とす(その言葉のこころ・味わいを話す)ことから、始めていただけませんでしょうか

 これが、一番難しいことなんでしょうが・・・

 
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肩書き

2007年05月08日 | 仏教
 浄土真宗では、住職のことを「和尚さん」とは呼びません。
「呼んじゃいかん」ではなく、真宗の住職さんたちは、他宗の住職さん方と違って、そう呼ばれることに恥ずかしさというか、違和感があるから・・・
 
 先日、「真宗のお寺の始まり」で、ご紹介したように、ご門徒の代表としての住職です。悟りをひらくために出家し、修行を積んだ偉い和尚さんではありません。始めから、在家(家庭生活をいとなみながら)の仏教僧侶です。
 お忙しいご門徒の皆様に代わり、仏教・作法を学んで、それをお伝えする役目。

 だから、「和尚さん」ではなく、「住職さん」、「院家(いんげ)さん」または、「院主(いんしゅ)さん」 と呼んでいただけたら、ありがたいです。

 あ、お寺のオバサンのことは、「坊守さん」
「奥さん」「おばさん」・・・なんでもご自由に。

 以前、あるご住職がワープロで「じゅうしょく」→「住職」と打ったつもりが、「じゅうしよく」→「獣私欲」と変換されて、「ホント、私のことだと思いました」と笑って話されておりました。


 ところで、最近テレビでコメントしておられる有識者の肩書きに「准教授」というのを見て、「?」だったのですが、この連休中にやっとわかりました。

 4月から学校教育法が変わり、大学の「教授」「助教授」「講師」「助手」だったのが、「教授」「准教授」「講師」「助教」「助手」になったのですね。

 「助教」とは、講義をもったり、学生の指導をされる方
 「助手」とは、指導ではなく、事務にあたられる方

なんだそうです。私、知りませんでした。

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思い出

2007年05月07日 | 本紹介
 ビハーラ活動で老人施設を訪問、ご高齢の方々と雑談させていただく機会があります。「あなた、どちらから?」と今尋ねたことを忘れ、同じことを繰り返し尋ねられる認知症の方も、昔のことは鮮明に覚えておられ、思い出をよく話されます。いきいきと昨日のことのように・・・

 佐々木恵雲先生(医師で僧侶)著「いのちの処方箋」本願寺出版社 に
「思い出の大切さ」という文章があります。

 「これは認知症の治療や予防に限りません。(略)すごく苦しいこととかストレスがかかった時には、(略)音楽を聴くとか、スポーツをするとか、誰かとおしゃべりをする(略)いろいろな解消法があるのですが、最近医学的にも、昔の写真、アルバムを見ることが非常にいいということがわかってきました。(略)
 ビデオは、あまりにリアル過ぎて良くありません。写真を見て思い出すことが頭に残って非常に良い、ということがわかってきました。」

 子どもの時の楽しそうな写真。これは大人の私たちが癒されるだけでなく、反抗期の子どもにもいいことかもしれません。
 まわりのお陰に気づくことなく、自分1人で成長し、自分1人で生きているような錯覚の子どもに対して
「きょう、片付けものしていたら、ほら、あなたが小さい時の写真が出てきて・・・かわいいよね。そして、本当に、皆さんにかわいがってもらい、お世話になってきたよねえ・・・」
と、言うだけでも。

 ところで、兄一家と同居することになり、大片付け中の実家から、私の昔の写真が届いているのですが、先日、55代横綱・北の湖とのツーショット写真が出てきたんです
 立派なお座敷で横綱と二人並んで映っている写真
 ミーハーとしては、すごいことなのに、私、全然記憶にありません。
 たぶん28年くらい前、九州場所の折、どなたかが横綱を招いて、直方のどこかの料亭で写していただいた写真だと思います。
 うふふ・・宝物にしようっと

 それにしても、今の記憶も危なく、若いころのことも全く覚えていない私って、かなりヤバイのでは・・・
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連休は連勤

2007年05月06日 | 雑感
 大型連休もきょうで終わり。後半3日間は雨でした。
 連休中、たくさんの方々がお寺においでくださいました。墓参り客の他に、ウチでご法事・会食をなさったお宅が数軒、きょうはお葬式後のお参りもあり・・・

 と、いうわけで住職は連休中、あわただしく仏事をつとめていました。(私は気楽に掃除とお茶くみ係)
 
 毎年、この大型連休中、佐賀の有田では、「有田陶器市」が行われていて、今年も期間中の来客が100万人を超えたとのことですが、住職がポツリと「この年まで一度も有田陶器市に行ったことがない・・・」と言っていました。(陶器市に限らず、どこにも行けないのですが・・・)
 連休で帰省していた義姉に「お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、お二人共50代で亡くなられたのなら、(両親が若い時から住職・坊守として責務があるので)小さい時から、家族そろって旅行されたことがなかったでしょう?」と、尋ねたら「そう、一度もなかった」と義姉の返事でした。

 義父も別の職業もっての住職でしたから、66才で退職するまで夫と同じことでした。年中無休。
 義父母の銀婚式にあたり、義姉達が寺の留守番し、北海道旅行をプレゼントした時も、出かけて間もなく、ご門徒さんが亡くなられ、急きょ帰宅した・・・という話も聞いています。

 そして、義母は義父が退職前に亡くなりましたから、とうとう二人そろって、ゆっくり旅行をすることも実現しないままでした。
 さて、我々夫婦は、フルムーン旅行など実現するのでしょうか? それとも、お寺を離れたら、お互い会話する話題もなく、しらけるのでしょうか・・・

 
 
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真宗寺院の始まり

2007年05月05日 | 仏教
 そもそも、本願寺の始まりが、親鸞聖人のお墓に門信徒が絶えず訪れ、ご法義の話になる・・・(親鸞聖人ご自身は、「自分の遺体は鴨川に捨てて、魚の餌にしてくれ」と仰ったのですが、後の者は、そういうわけにはいきません。大切に思う方を大切に偲びたい気持ちがありますから、聖人のお墓を建てます。)
 いつも門信徒が集まるその廟所が、後の本願寺になるのですね。

 末端の各真宗寺院は、親鸞聖人の教えを喜ぶ門信徒の方々が作られた道場です。集会所ですね。
 で、その道場に、専従の管理人が必要になってくる。
 浄土真宗の住職(初代)は、その門信徒仲間の中から、「あなた、代表でこの道場を守る住職になってくれないか?」と、みんなに推薦された方が、就任されたのが、始まりです。(もちろん、今は同じ真宗寺院でも、各寺によって起源は異なります。大方の真宗寺院の始まりは、こういうことです)

 門信徒のご法義を大切に思う気持ち、報恩感謝と仏徳讃歎の気持ちから、寺院の荘厳が派手?に整えられて、今の荘厳のかたちになっていったのだと推察します。(私は、お荘厳の起源のことは、わかりませんが・・・)
 
 そして、時代は流れ・・・
 先祖が大切に築き、守ってきた真宗寺院の意味も、住職の役割も誤解されています。(住職側の責任が大でしょうが・・・)
 今、お寺に親しくお参りいただく年長者の方は、お寺の意味をご理解されておられるので、「自分たちのお寺を、自分たちで大切に」と思ってくださっているのですが・・・
 やがて、その子孫の方々が「お寺は不要」と言われるのであれば、お寺は消えてなくなる・・・それが真宗寺院であります。
 
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釈迦如来と阿弥陀如来

2007年05月04日 | 仏教
 よくご門徒さんが質問されること
「お釈迦さんと阿弥陀さんはどう違うのか?」

 浄土教の教学では、
 お釈迦様は、この道を「行きなさい」と勧めてくださる仏さま 
 阿弥陀様は、この道を「おいで、おいで」と招いてくださる仏さま

 とそれぞれの仏さまの違いを説かれています。

 凡夫の私が歩ませていただく「この道」は、「阿弥陀様の本願におまかせする道」なので、浄土教でのご本尊は阿弥陀様(南無阿弥陀仏)です。

 阿弥陀如来は真如(ものの事実・真理)の「はたらき」の仏さまです。
 「真如」ですから、色も形もありません。

 しかし、「真如」と言われても、凡夫の私には何のことかわかりません。私の理性・理解をはるかに超えた世界です。それで私の理解できる(本当には理解はできないが、私が「真如」の存在に気づかされる)ように、人格的な姿をとってこの世に現れてくださった。

 それはお釈迦様の説法(お経)で語られる仏さまです。

 私を悟りに導くための方便としての姿・・・称えやすい「南無阿弥陀仏」の六字の名号や絵像、仏像の姿をとって、本堂の荘厳なり、お仏壇のご本尊となられているのです。
 もちろん、お経(仏説)を勝手に、ビジュアル化、お荘厳(寺の飾りや仏壇)の形にしたのは、凡夫のしたことですが・・・

 「真如」に、ほど遠い私が手を合わせ、こころを合わせる場としてのご本尊(阿弥陀様)を中心とした荘厳(しょうごん・お飾り)です。
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大乗仏教

2007年05月03日 | 仏教
 本願寺出版社の月刊誌は「大乗」という名前ですが・・・
「大乗仏教」とか「小乗仏教」とか、耳にされたことが、おありでしょう。
 
 先日もご紹介した ひろさちや氏の「お念仏とは何か」新潮選書 にそって、要約、ご紹介しますと、

 「小乗仏教」とは、自分がさとりを得るために、出家し、修行を積んで、「仏」(真理に目覚めた人)を目指す仏教
 
 お釈迦様は、「釈迦族の王子であった方(人間)が悟りを開いて、釈迦仏に成られた」という受け取り方
 その釈迦仏が定められた戒律を守り、自ら智慧を得て、さとる。それは、あくまで自らの救いです。
 
 「大乗仏教」とは、自分だけが悟りを得るのではなく、皆ともに、悟りに導かれる教え 如来(仏)の救済で悟りを得る

 p65「大乗仏教」においては、如来というものを
ーーー宇宙の救済意志ーーーー
 だと考えます  
(略)
 如来は目に見えないものです。 われわれの認識を超えた無限の存在です。
(略)
 「如」の原義は「そのようであること」「あるがまま」を意味します (略)
 「如」とは「宇宙の真理」です。

 だから、お釈迦様も「人間だった」というより、宇宙の真理から私たち人間世界に現れてくださった「応身仏」と受けとるのです。

 教化する対象であるわれわれ人間に応じて身体を持たれた仏(如来)
 それが「釈迦如来」
 
 大乗仏教と小乗仏教では、このように仏陀観が異なるようです。

 


  



 、
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K夫人を偲んで

2007年05月02日 | 雑感
 子どもの頃から家族ぐるみでお世話になってきたK夫人が亡くなられました。
 10時からのご葬儀に参列するため、早朝、佐賀を出て 、一旦実家へ寄り、母と一緒にお参りしてきました。
 一級先輩の長女Rさんが喪主をつとめられ、ご姉妹にも久しぶりにお目にかかりお悔やみを申し上げてまいりました。
 
 母は、長年仲良くさせていただいていたTさんが3月に亡くなられ、ショックを受けたばかりのところでしたから、またも、悲しい、淋しい思いをしています。
 幸い父母とも、一番親しくさせていただいている、もう一軒のK先生ご夫妻(きょうご葬儀だったK家とご親戚で同じ名字のK家)がお元気でいてくださり、話し相手をしてくださっているので、大変有り難いことです。
 そのK家長女のYさんとは、お互い「おじちゃん、おばちゃんは宝物だから・・・」と言い合っています。
 
 父は間もなく86才。2度ほど死にかけましたが、今は、それなりに元気にしています。母は健康ですが、81才になり、背中が丸く、体も小さくなりました。
 
 先日、100才をこえられたお母様を亡くされた70過ぎのご門徒I氏も、それはお辛そうでした。親しい方、あるいは、最愛の家族を失うことに「もう年だから、いいじゃないか。仕方ない」とは、わりきれない。頭ではわかっていても、悲しくつらいことには変わりありませんよね。

 「愛別離苦」は、どうしようもないことながら、どうしようもなく悲しいことです・・・

 
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阿弥陀様の誕生日

2007年05月01日 | 仏教
 お陰様で私の腰痛は、だいぶ楽になりました。猿人状態から背筋も伸び、無理なく二足歩行できるまでに進化しました。

 さて、お釈迦様のお誕生日は4月8日となっていますが、では、阿弥陀様のお誕生日っていつなんでしょう?

 ひろさちや著「お念仏とは何か」新潮選書 に 「阿弥陀仏の誕生日はいつ?」と題して書かれた文章があります。

 この問は、あるお寺の幼稚園で、園児が園長先生に質問したものです。お寺の住職でもある園長先生は、返答に困られたそうです。だって、経典のどこにも阿弥陀様のお誕生日なんて書かれていませんから・・・

 この問に対するひろさちや氏の答は、こうです。
 
 例えばヒデヒコ君の誕生日が3月23日だとすれば、阿弥陀様の誕生日も3月23日。ヨシコちゃんの誕生日が9月21日だとすれば、阿弥陀様の誕生日も9月21日。

 「みんな、それぞれが生まれた日に、それぞれの阿弥陀さんが誕生されたんだ。阿弥陀さんって、そういう仏さまなんだよ・・・」p56

 よく言われることですが、「自分の先祖は『仏さま』として礼拝できるが、「ご本尊」だの「阿弥陀さん」だの言われても会ったこともないし・・・」

 自分が直接お世話になった人は大切にできるが、おかげさまのはたらきには気づきにくい。自分の思いに執着することから、いろんな問題が生じ、思い悩むのだけれども、全ての問題は自分以外の周りに原因があると思ってしまう・・・
 
 昨日のブログ・若い頃の私みたいに、仏教の法話を聞いても、全て人ごとで、自分のこころの問題だと聞かなければ、いつまでたっても阿弥陀様には出逢えないのだと思います。
 生まれた時から私のそばにおられる阿弥陀様なのに。

 
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