「極楽浄土」って、覚りの世界 のことであって、
死後のパラダイス ではない
この世の楽しみの延長・自分の思い通りになる、極めて楽チン という世界 ではない
現実の自分と隔絶した、どこか遠くにある夢の世界 ではなく
現実、今、正しい(仏の智慧の)感受の心の世界 です。
極楽浄土で、覚りの仏と成るのは、何のためか
自分がこの世の苦しみから逃げ、自分だけが、「覚りの境地」を楽しむため ではなく
「まだ、自我の世界で、さまよい苦しむ人々を、覚りに導きたい」
と、願われる 如来の本願(はたらき) を お手伝い、実践できるようになるため。
極楽浄土に往生(往って生まれる)成仏する(仏に成る)ならば、
のんびり、「あ~、極楽極楽」と、浄土で、安らかに眠っている場合じゃない
人を救うことに、よろこびを感じ、いや、救わずには おれなくて
(人間の目には見えないけれど)一人でも浄土の真実を宗とする教えに気づき、現実、今を心安らかに生き抜くよう、はたらきかけ続ける。
「極楽浄土」は、そういう智慧と慈悲の「仏」の世界(境地)であります。
死後のパラダイス ではない
この世の楽しみの延長・自分の思い通りになる、極めて楽チン という世界 ではない
現実の自分と隔絶した、どこか遠くにある夢の世界 ではなく
現実、今、正しい(仏の智慧の)感受の心の世界 です。
極楽浄土で、覚りの仏と成るのは、何のためか
自分がこの世の苦しみから逃げ、自分だけが、「覚りの境地」を楽しむため ではなく
「まだ、自我の世界で、さまよい苦しむ人々を、覚りに導きたい」
と、願われる 如来の本願(はたらき) を お手伝い、実践できるようになるため。
極楽浄土に往生(往って生まれる)成仏する(仏に成る)ならば、
のんびり、「あ~、極楽極楽」と、浄土で、安らかに眠っている場合じゃない
人を救うことに、よろこびを感じ、いや、救わずには おれなくて
(人間の目には見えないけれど)一人でも浄土の真実を宗とする教えに気づき、現実、今を心安らかに生き抜くよう、はたらきかけ続ける。
「極楽浄土」は、そういう智慧と慈悲の「仏」の世界(境地)であります。