事務職員へのこの1冊

市町村立小中学校事務職員のたえまない日常~ちょっとは仕事しろ。

1976年のアントニオ猪木 3戦目

2007-05-20 | スポーツ

Inoki_book 前号繰越

 東京体育館の興奮をいまだにおぼえているわたしに、柳澤のこの書は冷水を浴びせかける。プロレスとは基本的にフィックスト(定められた)・マッチだ、と。つまり対戦相手と綿密な打合せを行い、ストーリーを練り上げて観客に満足を与えることこそが目的であり、ガチンコにみえる猪木のプロレスもその例外ではないというのだ。

 プロレス技で有名なものに足4の字固めがある。フィギュア・フォー・レッグロック。子どものころにかけ合いをして、そのあまりの痛さに悲鳴を上げた人も多かろうと思う。しかしあれはやってみるとわかるが“かけられる方の協力”がなければおよそ成立しない技だ。でも、観客へのアピール度が高いものだから決め技としてメジャーなものになっている。同じことが猪木の卍固め(オクトパスホールド)やコブラツイストにもいえる。あの不安定な技を“美しく”決める能力こそが猪木の真骨頂だと(そこまではっきり断定してはいないが)。

 それでは76年の四試合がなにゆえにリアルファイトになってしまったか。柳澤はそこに“技術の不足”を指摘する。ストーリーテリングと身体のバランス感覚において猪木はまちがいなく天才だ。しかしたとえばアリ戦においては、ボクサーのパンチをかいくぐって寝技にもちこむタックルのテクニックを(アマレスの経験がない)猪木がもっていなかったことが凡戦の原因だと推理する。また、プライドの高さや、自らが決めたストーリーに満足できなくなる瞬間がおとずれる、猪木の人格の破綻こそが76年の結末ではなかったか、とも(柳澤のインタビューの申し出を猪木は蹴っている)。

Sakuraba01  猪木のリアルファイトによって、韓国とパキスタンのプロレスは衰退し、キックを何度も足にあびたモハメッド・アリは引退をはやめた。自分の限界を察知した猪木は事業に熱中し、妻(倍賞美津子)と金を失う結果となった。要するに何にもいいことはなかったのである。はてしない消耗戦をつづける猪木に、馬場は「ご勝手に。こっちは“プロレス”を続けさせてもらう」と余裕のかまえだったし、ショープロレスをとことん突きつめたアメリカのマット界は、現在隆盛の極にいる。

 しかしそれでも、アントニオ猪木という存在が偉大であることは微塵も揺るがない。彼のスタイルこそが、格闘技を進化させたのは事実なのだ。寝技と立ち技が融合したグレイシー柔術の席巻を、テクニシャンにしてクレバーな桜庭和志が撃破し続けたのはアリ戦の凡庸さがあったからだ。乱立するプロレス団体も、もはやアメリカのような能天気な世界ではなくなっている。それはすべて、日本にアントニオ猪木がいたからだろう。日本のプロレスは力道山が生み、ジャイアント馬場が育てたかもしれない。でも彼らの後継者は、不肖の息子であるアントニオ猪木の呪縛から、今も離れられずにいるのだ。
【1976年のアントニオ猪木 おしまい】

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