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2月、反市長派が大半を占める市議会は、臨時議会で不信任案を可決し、市長は対抗手段として議会を解散した。3月の出直し市議選で過半数を占めた反市長派は直ちに2度目の不信任を突き付け、市長は失職。5月の出直し市長選で、市長は反市長派が擁立した候補を破り、攻撃の矛先を市職員労働組合や職員にも広げる。早速、市役所内にある市職労事務所の使用許可を取り消し、庁舎内の職員人件費の張り紙をはがした元係長の男性(45)を懲戒免職処分にした。
市職労事務所問題は鹿児島地裁が「取り消し処分は違法」として市側の敗訴が確定。懲戒免職処分も地裁と福岡高裁宮崎支部が男性側の訴えを認め、職場復帰を認めた。ところが市長は司法判断を無視し、男性の復職、給与支給を拒否。11月には、自身のブログに障害者の出生を否定するような文章を掲載。障害者団体らが抗議しても謝罪せず、報道関係者の取材も拒み続けている。(12月27日付読売新聞)
やりたい放題である。笑ってすませられる話ではない。もっと早くに特集してきちんと批判すべき問題だった。市長を?まさか。“彼”が批判を受けて健全な市政に軌道修正などするものか。市民を、だ。
おそらく市の現状は多くの地方自治体と同じように停滞し、疲弊しているのだろう。前市長は職員を厚遇していたようなので、その反動が出ているだけ、と見ることも(かなり好意的にとれば)できる。
でも、さすがにここまでくると市民自身のレベルが問われる。「公務員バッシングで人気取り」は改革派の首長がよくやる手法だが、それにこうまで簡単にのせられるとは。
読者から送ってもらった(既に削除された)ブログの内容はこうだったらしい。
11月8日付「医師不足の原因は医師会」
高度医療のおかげで以前は自然に淘汰(とうた)された機能障害を持ったのを生き残らせている。結果、擁護施設(原文まま)に行く子供が増えてしまった。「生まれる事は喜びで、死は忌むべき事」というのは間違い。センチメンタリズムで社会を作る責任は果たせない。社会は志を掲げ、意志を持って悲しみを引き受けなければならない。未来を作るために。
9日付「神の領域」
慎重さを欠く見解に見えたかも知れない。人間は生と死の境目をコントロールする技術を手に入れつつある。使い方を知らないまま乱用すれば、多くの人々に厳しい生活を強いる。するべきことは、まず人口を増やす事。高度医療でもうける医者と業界を増やすことではない。精神的にも健康な子どもたちが増えれば障害を持った子どもたち、体の弱った高齢者をよりよく支える社会を作ることができる。
……こんな考え方をする人が極力少なくなるために先人たちの苦闘があったのではないだろうか。彼の考え方は非常にシンプルで、だからこそ俗耳に入りやすい。しかし、そこを踏みとどまるのが常識というものだし、少なくとも権力者としての矜持だろう。
副市長も教育長もいない現状で、市民があてにならないとすれば法に期待するしかないのだろうか。まあ、司法判断すら彼は無視しているわけだけれど。独裁者が、最初は改革派として登場する典型のような事例。
ブログという形で(個人攻撃が多かったようだが)自らの考えを政治家が表明するのは正しい態度だと思うし、批判する側が感情的になっては逆効果だとも思っていた。でもこれはもう、鹿児島県阿久根市の、竹原信一という特定の個人の話ではなくなっている。なぜリコールの声が市民自身から出てこないのだろう。
残念ながらPART2につづく。
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