今月で、ブログを始めてからまる六年になります。
ブログを始めて最初に訳したのが、シャーリー・ジャクスンの「くじ」でした。
それを記念して、今日からしばらく、「くじ」が引き起こした大変な反響について、作者ジャクスンが語ったものを訳していきます。たぶん一週間ぐらいで終わるはずです。まとめて読みたい人はそのころ、来てみてください。
1948年6月28日の朝、わたしはヴァーモント州にある、小さな町の郵便局まで、歩いて郵便物を取りに行きました。
いまにして思えば、そのときのわたしは、まったくのんきなものでした。郵便箱にあった二通の請求書と一通か二通の手紙を取り出して、局長としばらく立ち話をしてから郵便局をあとにしたのですが、このときを最後に、それから数ヶ月間というもの、平静な気持ちで手紙を開封できなくなるとは、夢にも思いませんでした。翌週には、郵便箱を局内最大のものに取り替えなければならなくなり、局長との世間話などもってのほかでした。というのも、局長はもはやわたしには口をきいてくれなくなったからです。
1948年6月28日は、わたしの小説が掲載された「ニューヨーカー」の発売日でした。その短篇は、わたしの作品のうちで最初に世に出たものでもなければ、最後でもなかったのですが、それから先、わたしは幾度となくこう言われたものです――仮にあなたがこの一作しか書かず、出版されることもなかったとしても、世間は決してあなたの名前を忘れることはないでしょう、と。
わたしがその物語を書いたのは、さかのぼること三週間前、夏の到来を思わせる、陽射しが明るく降り注ぐ朝のことでした。空はどこまでも青く澄み、日の光も暖かく、天からの警告――朝、何の仕事をしてもかまわないが、新しい話を書くことだけはやめなさい――も聞こえて来ませんでした。
アイデアが訪れたのは、娘を乳母車に乗せて坂道をのぼっているときのことです。先にも言ったように、朝といってもいささか暑い日でしたし、坂は急、しかも乳母車には娘のほかにその日の食料品まで積んでありました。おそらく、坂道を上りきる最後の50メートルの苦しみが、物語にいくばくかの棘を与えたのにちがいありません。
ともかく娘をベビーサークルに入れ、冷凍野菜をフリーザーに片づけたころには、アイデアは頭の中ですっかりできあがっていたので、ひとたび書き始めるや、ペンはなめらかに滑り出し、最後まで止まることがありませんでした。実際、あとで読み返しても、細かな箇所をひとつかふたつ手直ししただけで、書き直す必要がなかったのです。タイプで仕上げて、翌日エージェントに送った作品は、およそ細部に至るまで、最初の草稿とほとんど変わらないものでした。
おそらくどの作家も賛成してくれるでしょうが、こんなことはめったに起こるものではありません。わたしにわかっているのはただ、書いたものを読み返してみたときに、この話はいじりまわさない方がいい、と強く感じたということだけです。何も、非の打ち所のない作品だと言いたいわけではないのです。ただ、もういじらない方がいいと思った。まじめでてらいのない作品だと思ったし、すらすらと書けたことがうれしくもあり、同時に意外でもありました。悪くないできばえだ、という自信もあったので、エージェントがどこかの雑誌に売ってくれて、出版してもらえればいいなあ、と思いました。
わたしのエージェントはその作品をあまり気に入ってはくれませんでした。それでも――当時、彼女がくれた手紙によれば――自分の仕事は売ることであって、好きになることではない、と考えたようです。彼女はすぐに「ニューヨーカー」に送り、書き上げてからほぼ一週間後、わたしは「ニューヨーカー」のフィクション部門の編集者から、電話を受けとりました。編集者もその作品を気に入っていないのは明らかだったのですが、「ニューヨーカー」は買うことにしたようでした。
(この項つづく)
ブログを始めて最初に訳したのが、シャーリー・ジャクスンの「くじ」でした。
それを記念して、今日からしばらく、「くじ」が引き起こした大変な反響について、作者ジャクスンが語ったものを訳していきます。たぶん一週間ぐらいで終わるはずです。まとめて読みたい人はそのころ、来てみてください。
* * *
Biography of a Story
ある物語の伝記
by Shirley Jackson
Biography of a Story
ある物語の伝記
by Shirley Jackson
1948年6月28日の朝、わたしはヴァーモント州にある、小さな町の郵便局まで、歩いて郵便物を取りに行きました。
いまにして思えば、そのときのわたしは、まったくのんきなものでした。郵便箱にあった二通の請求書と一通か二通の手紙を取り出して、局長としばらく立ち話をしてから郵便局をあとにしたのですが、このときを最後に、それから数ヶ月間というもの、平静な気持ちで手紙を開封できなくなるとは、夢にも思いませんでした。翌週には、郵便箱を局内最大のものに取り替えなければならなくなり、局長との世間話などもってのほかでした。というのも、局長はもはやわたしには口をきいてくれなくなったからです。
1948年6月28日は、わたしの小説が掲載された「ニューヨーカー」の発売日でした。その短篇は、わたしの作品のうちで最初に世に出たものでもなければ、最後でもなかったのですが、それから先、わたしは幾度となくこう言われたものです――仮にあなたがこの一作しか書かず、出版されることもなかったとしても、世間は決してあなたの名前を忘れることはないでしょう、と。
わたしがその物語を書いたのは、さかのぼること三週間前、夏の到来を思わせる、陽射しが明るく降り注ぐ朝のことでした。空はどこまでも青く澄み、日の光も暖かく、天からの警告――朝、何の仕事をしてもかまわないが、新しい話を書くことだけはやめなさい――も聞こえて来ませんでした。
アイデアが訪れたのは、娘を乳母車に乗せて坂道をのぼっているときのことです。先にも言ったように、朝といってもいささか暑い日でしたし、坂は急、しかも乳母車には娘のほかにその日の食料品まで積んでありました。おそらく、坂道を上りきる最後の50メートルの苦しみが、物語にいくばくかの棘を与えたのにちがいありません。
ともかく娘をベビーサークルに入れ、冷凍野菜をフリーザーに片づけたころには、アイデアは頭の中ですっかりできあがっていたので、ひとたび書き始めるや、ペンはなめらかに滑り出し、最後まで止まることがありませんでした。実際、あとで読み返しても、細かな箇所をひとつかふたつ手直ししただけで、書き直す必要がなかったのです。タイプで仕上げて、翌日エージェントに送った作品は、およそ細部に至るまで、最初の草稿とほとんど変わらないものでした。
おそらくどの作家も賛成してくれるでしょうが、こんなことはめったに起こるものではありません。わたしにわかっているのはただ、書いたものを読み返してみたときに、この話はいじりまわさない方がいい、と強く感じたということだけです。何も、非の打ち所のない作品だと言いたいわけではないのです。ただ、もういじらない方がいいと思った。まじめでてらいのない作品だと思ったし、すらすらと書けたことがうれしくもあり、同時に意外でもありました。悪くないできばえだ、という自信もあったので、エージェントがどこかの雑誌に売ってくれて、出版してもらえればいいなあ、と思いました。
わたしのエージェントはその作品をあまり気に入ってはくれませんでした。それでも――当時、彼女がくれた手紙によれば――自分の仕事は売ることであって、好きになることではない、と考えたようです。彼女はすぐに「ニューヨーカー」に送り、書き上げてからほぼ一週間後、わたしは「ニューヨーカー」のフィクション部門の編集者から、電話を受けとりました。編集者もその作品を気に入っていないのは明らかだったのですが、「ニューヨーカー」は買うことにしたようでした。
(この項つづく)