陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

運がいいとか悪いとか

2010-10-29 07:12:20 | weblog
ところで、あなたは運がいい方ですか。

こんなふうに聞かれると、たいていの人は、これまでのことをざっと振り返って、まあいろいろあったけど、不慮の事故に遭ったわけでもなく、こうやって元気でいることだし、まあまあ運がいいと言えるんじゃないか、などということを考えるのではあるまいか。もちろん、悲観的な人なら、あれもダメだった、これもうまくいかなかった、と、悪い結果ばかりつなぎ合わせて、自分は運が悪い、と考えるかも知れないが。

ところで、特に深く考えるでもなく、わたしたちが使っている「運」というのは一体何なのだろう。

サイコロを振って、五回連続で1の目が出たとする。わたしたちは何だか不思議な気がしてくるだろう。一回につき、1の目が出る確率は1/6、二回続くだけでもその確率は1/36だ。五回ともなると、1/7776じゃないか。すごい確率だぞ。もしかして、いま、ツいているのかもしれない。宝くじを買ってみようか……。いや、運をこんなところで無駄に使ってしまったのかもしれない。とまあ、こんなところで「運」という言葉が登場する。

ではこんな場合はどうだろう。
手に持っていた鍵を、床に落としたところ、チャリンと音がした。わたしたちは別にそれを不思議にも思わず、かがんで鍵を拾うだろう。

けれど、仮に鍵を落としたところ、とんでもなく大きな音がしたとする。予期せぬ音に驚いてから、この床はえらく音が響く床だ、きっとそんな材質が使われているにちがいない、それともこの床の下が空洞になっていて、音が反響する構造になっているのだろうか、などと、さまざまに思いをめぐらせるはずだ。

このように、「鍵を落とす」という原因と、「音がする」という結果が、わたしたちに何ら違和感なく受け入れられるとき、わたしたちはその理由を求めたりはしない。というか、そもそも音の大きさに気がつくこともなく、原因と結果に思いをめぐらせることもない。けれども、その音の大きさが予想外だったり、音色が異なっていたり、つまりは原因と結果の関係が非対称であるとき、わたしたちはその「理由」を求める。

さきほどのサイコロの例も同じだ。
1の目が五回続いて、何だか不思議な気がする。サイコロを放る→1が続く、という「原因」と「結果」の非対称から、「1が続くことの意味」を求めてしまうのである。

だが、サイコロの出目に、そもそも意味などない。だから「単なる偶然」で片づけてもいい(もちろんこの「偶然」というのも、わたしたちが原因と結果の非対称を埋める「意味」として持ち出した説明のひとつであることには変わりない)。それでも1/7776という数字が「単なる偶然」とは「釣り合わない」と感じた人は、そこからさらに説明を求める。「不思議さ」に見合う意味がほしい。だからその「原因」を無理矢理どこかに求めることになってしまう。

そんなものはないのに、無理に探すわけだから、いきおいそれは非合理的なものにならざるをえない。そこに「つき」とか「運」とかあるいは「超能力」とか、「こっくりさん」(?)とか、まあなんにせよ、摩訶不思議なものが持ち出されてくるのである。

昨日まで紹介していたシャーリー・ジャクスンの話の中で、あれほど多くの人が「くじ」という作品を非難したのは、結果(ジャクスンは暗示するに留めているが)の恐ろしさに対して、「どうしてそんなことをするのか」という原因が一切明らかにされていないからだ。

たとえば、人柱というのも残酷なものだが、「雉も鳴かずば撃たれまい」の元になった故事、長柄橋に橋を架ける、という原因がはっきりしている話であれば、おそらく誰も腹を立てたりはしないだろう。このように、原因と結果の非対称というのは、わたしたちを落ち着かない気持ちにさせる。もちろんその不安を煽っていくのはジャクスンの腕だが。

小説ではいくつか約束事があって、その中のひとつは、出来事にはかならず意味がある、というものである。ある出来事にはかならずその「原因」があるし、また、のちに「結果」を生む。だからこそ、わたしたちは虫眼鏡を持った探偵よろしく、ひとつひとつの出来事を、丹念に拾い集めていくのである(そうして、小説を読んで、どういう意味かわからない、筋が追えない……という場合は、出来事をうまく拾えていないのだ)。逆に、だからこそ、ある朝起きたら巨大な「虫」になってしまっていて、家族に厄介者扱いされて、半ば自殺するように死んでしまったあと、残された家族が悲しむどころか、ピクニックに行ってしまうような小説を読むと、宙づりにされたような、不思議な気持ちになる。これはいったい何のアレゴリーだろう、「虫」は何のメタファーだろう、ザムザは一体何を体現しているのだろう、カフカは一体、『変身』を通して何が言いたかったのだろう……などと、頭を悩ましたり、読書感想文を書いたりすることになるのだ。

けれども、それはあくまでも「小説」という枠組みの話であって、わたしたちを取り囲むさまざまな出来事は、そんなわけにはいかない。ちょうど、朝起きてみたら自分が虫になっていたことに気がつくザムザとまったく同様に、自分に何かが起こっていることはわかっても、いったいそれが「何」なのか、「どういうこと」なのか、そのことは、結果が十分に出てしまうまでわからない。

日常に起こる無数のことを、そこまで意識的にやっていては、わたしたちはすっかり疲れてしまうので、ほとんどのことは、飛行機が自動運転で運航しているように、意識される前に自動的に処理されてしまっている。そうして、何か非日常なこと、自動的に処理できないことが出来したときのみ、「これは何だ?」とわたしたちのセンサーが働き始めるのである。

何かが起こった。わたしたちは「これは何だ」「どういうことだ」と過去を振り返る。自分に大きな影響を与えるような「結果」には、それに対応するような「原因」が必要だ。そうならなかった可能性だって十分あったのに、6分の1どころではない、無数の可能性の一つ一つが重なって、この結果を生みだしたのだ……。
そう考えたとき、「運命」が生じる。

結局、「運」という言葉の一方の端は、いまのわたしたちが握っているのだ。過去の「偶然」を結びつけ、ちょうど星をたどって星座を見つけ、不思議な物語にあてはめるように、過去における無数のできごとを結んで、「運命」という物語を創り出していくのは、わたしたち自身なのである。

おそらく、ばくぜんと自分が「運がいい」と感じている人は、いまの状況がその人にとって、居心地良いものであることを示している。逆に、「運が悪い」と感じている人は、そうではないのだろう。「運」は、「いま」の自分が創り出す物語だからだ。

今日のわたしは何をやるか。どんなふうに、一日を過ごすか。
これから三年後、五年後、十年後、「自分はまあまあ運がいい方だな」と思えるように、過ごしたいものだ。




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