陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

閑話休題(※一部補筆)

2010-10-22 23:50:02 | weblog
いつも拙ブログにご訪問くださるみなさま、こんばんは。
明日、明後日と所用でちょっと更新ができないので、シャーリー・ジャクスン、何とか今日中に仕上げようと思っていたんですが、最後まで行けません。ほんのちょっとだけ残して、二日間、空けるのは、申し訳ないので、今日は予定を変更して、これまでくださったコメントについて、思ったことなどを書いていきたいと思います。

ええ、いい加減な企画です。ゴメンナサイ。

その1.


「デンプン食について語るときに我々の語ること」のログにいただいたコメントに

Mutsukiさん、こんにちは。


コメントくださったのに、レスがこんなに遅くなってしまってごめんなさい。

食べることって、ちょっと不思議なところがあると思いません?
わたしの友人に、外国人と結婚した人が何人かいるんですが、みんないずれも、自分が慣れ親しんできた食べ物と、相手が慣れ親しんできた食べ物の中間地点に「そこの家の食べ物」の着地点を見出しているんです。

もちろん、夫側、妻側、どちらにより近いか、というのはそれぞれなんですが、どちらかが「自分の最初のポジション」から一歩も動いていないというケースはない。やはり女性の方が順応性が高いかと思うのですが、あちらが譲り、こちらが譲り、で、端で見ていると、「真ん中当たり」で着地したふたりが、やはり一番うまくいっているように思えます。

おふくろの味と言いますが、わたしたちの舌は、意外に簡単に「親離れ」できるように思うんです。好みの味は変わっていく。良い例が、ピーマンやほうれん草で、小さな頃、あの苦みが駄目だった子供が、あるときを境に、その苦みこそを好ましく思うようになる。
逆に、小さな頃あれほど好きだった食べ物が、なんで当時そんなにおいしく思えたのだろう、と思うこともあります。新しい環境に馴染んで、それまで慣れ親しんだはずの「おふくろの味」を久しぶりに食べると、懐かしい反面、同時に「あれ、こんなに甘かったっけ?」と、舌のどこかで拒絶したりもする。

そのきっかけとなるのがひと皿の料理だったり、特別な出来事だったりと、はっきりと意識されることもありますが、「いつの間にか」ということも少なくありません。

ただ、いずれにせよ、自分の好みの変化に気がつくときは、おもしろいことに、たいてい「自分自身の変化」として意識されるところです。

「ぼくな、ピーマン、食べれるようになってん」という子は、ピーマンが食べられるようになった自分が誇らしいのだし、おそらく、薄い色のだしのうどんでなくては、と思うようになられたMutsukiさんは、そうお感じのとき、「北海道民」でいらっしゃったかつてのご自身と、いまのご自身の変化として感じていらっしゃるのだと思います。

好みの変化は、単にそれにとどまるものではなく、自分の変化として意識される。このことは、わたしたちがさまざまな局面において、「いまの自分」を確認していることを教えてくれます。

つまり、「わたし」という言葉によって焦点化される「何ものか」は、それを映し出す鏡がつねに必要だということなんですね。

「自分とは何か」という問いも、それを映し出す鏡がなければ、何もわからない。あるときはそれが親しい人との会話だったり、またあるときは、ある出来事に直面して、なんらかの選択をせまられたり。そうして、「食べること」というごく身近なこともまた、わたしたちが「いまの自分」を確かめる鏡としてあるのでしょうね。


「死んだ肉の思想 その2.」のログにいただいたコメントに

こちらにもありがとうございます。

> 違う考えを「叩き合わせる」。それは決して無益ではない。

わたし自身は、あまり議論というものを好まないんですよね。

十代の頃は、おそらくクラスメイトたちより、少しばかり本を多く読んでいたこともあるのでしょう、言葉の使い方が達者で、人から説明がうまい、話に説得力がある、などと言われ、白を黒と言いくるめるぐらいはお手の物……などと思い上がっていたのです。

ところがそのうち経験を積むにつれ、その場でいくらいいくるめても、その人を動かすことはできないことがわかってきました。説得しようが、論破しようが、おだてようが、人の気持ちなど、自分の言葉によって動かすことなど、できることではないのです。

そんな風に思うようになるにつれ、相手が自分に賛同してくれていないことがわかる場面では、何をしゃべっても、自分の言葉がぼろぼろ手の間からこぼれ落ちていくのが見えるようになってきたんです。ああ、自分はなんと空しいことをやっているのだろう、と。

そもそも意見がちがう人と、その意見を「叩き合わせる」ことにどれだけ意味があるのでしょうか。結局は双方が意見をぶつけあい、それぞれが自分の「正しさ」を、いっそう強く思うだけに終わる。そうなるのではないか。

相手の意見を聞き、自分が変わっていく……ということを思った時期もありましたが、それもちょっとちがう。その場では、そんな気分になったとしても、冷静になればやはり自分の方が正しかった、ということになりがちなのです。

むしろ、自分の意見が変わり、ものの見方が変わるとき、というのは、そのようなものとは意識されないことの方が多いように思います。

ある人に相対しているうちに、それまで思いもよらなかったようなことを自分が言い出している。

> ひととき、今まで自分が考えも及ばなかった「視点」に目を向け交わる。

これはほんとうにその通りなのですが、これって意識してできるものではありませんよね。いつのまにかそうなっている。

> そして「自分の個の考え」に立ち返り、その交わりを反復する。
> そこには「発見」があります、気付かなかった自分の新たな側面の様なものが。

この「反省」の作用は意識的なものであっても、「変わる」というのは、意識してしようと思っても、どうにもなるものではない。だからこそ、人との交わりというのは、おもしろくもあり、緊張するものでもあり、不思議なものでもあるのだろうと思います。


いろいろ刺激をくださった書き込みでした。ほんとうにありがとうございました。

その2.

「お世辞を言われたら」のログにいただいたコメントに

maicouさん、こんばんは。
毎週ラジオを楽しく聞かせていただいてるんですよ。最近、おふたりとか3人で番組をやっていらっしゃるでしょう? ずいぶん自然な感じで楽しそうにしゃべっていらっしゃって、やはり、人間というのは、ひとりで話し続けるというのは、不自然なことなんだなあ、と改めて思ったのでした。そう思うと、DJというのは、大変な仕事ですね。


> 最近私、女性の方に最初好かれては、やがて嫌われ去っていかれるという事が非常に多くなっております。

ごめんなさい。笑っちゃいました(笑)。
いや、悲壮感がちっとも滲んでいないので。
もちろん、ほんとうにそれを悩んでいる人は、こんなふうに言わない、というのもあるんですが、それ以上に、そのような事態を少し上から見て楽しんで(?)いらっしゃる、maicouさんの目が感じられる、
不思議なんですが、なぜそういうことって伝わるんでしょうね。

> 昔は、恐らくそうしたほうが付き合いも順調なのかと思い、一生懸命無理しておりましたが

きっとそれも伝わってたんだと思うんです。
そうしたmaicouさんの努力を、ありがたいと思う人もいただろうし、そこで自分の優越感みたいに感じていた人もいただろう。でも、なんとなく、肩が凝るなあ、みたいに漠然と思っていた人もいたのかもしれませんね。

> 私の場合、本心からそう思ったときは、本当に相手を褒めますけども、そうじゃないときにお世辞が言えません。

お世辞、言ってる人ってわかりますよ。
気が弱くて言わずにいられない人もいますけれども、人によっては、こっちを操作しようとしている人もいて、それが感じられると、やれやれ、と思ってしまいます。「お世辞が言えません」という構えの人もわかる。だから、褒められるとうれしい。やった、またがんばろう、もっと褒めてもらおう、と自然に思える。お世辞だと、悪い気はしないけれど、先へは続いていきませんよね。そこでおしまいです。

愛想が悪いと気を悪くする人って、実際にはどれだけいるんでしょう。
もちろん敵意を剥きだしにされると別です。けれども、お世辞で相対してくる人には、わたしたち、どこかで警戒するんじゃないでしょうか。

こう考えると、お世辞って一種の武器や防具なのかもしれませんね。人によって、武器として使う人(相手を操作しようと目論む人)、防具として使う人(相手の歓心を買うことによって弱い自分を守ろうとする人)と、使い方はいろいろだけれど。

だから、お世辞を使う、使われるというのは、この武器や防具を身につけた、いずれにせよ緊張感を伴う関係なんです。だからその状態を楽しめる人(お世辞を言われたい人)というのは、結局自分の力を味わいたい人なのかもしれませんね。

> 先に「私自身」じゃなく、「私の音楽」のほうを知った方は、概ね好意的に接していただけるので、

何が理由であっても、自分に好意的に接してくれる人とは、こちらも楽に相対することができる。それがために、会話は楽しく弾み、相手はいっそう好意を持ってくれる。

当然、逆のスパイラルもある。

上方向のスパイラルならいいのだけれど、不幸にしてマイナスのスパイラルになったらどうしましょうねえ。簡単な方法は「避ける」なのですけれども、相手が、なんとかしてその向きを逆転させようと努力している場合は「避ける」わけにもいかない。

ひとつには、「自分はこんな人」という看板をあらかじめ出しちゃうっていうのはあると思うんです。自分は「職人」だから、つきあいではなく仕事で判断してくれ、みたいな。それは、わかってくれる人には有効な手ですが、逆に自分がしばられることもある。

わたしはいったんそのわだちにはまりこんじゃうと、つい、過度に相手に気を遣って、やがてイヤになって投げ出す……ということをこれまでやってきたのですが。
歳も取ってきたので(笑)、なんとか淡々としたつきあいをやっていきたいと思っています。

相手が「お世辞を言ってくれ」という空気を出して来たときは、まあ、それにうまく乗れるくらいの柔軟性が持てればよいのですけれど。

書き込み、どうもありがとうございました。


いつも拙ブログを読んでくださってありがとうございます。
そうして、コメント、ほんとうにありがとう。


ということで、明日、明後日とブログはおやすみです。
月曜日にシャーリー・ジャクスンの最終回をお送りします。