その3.
作品や本を世に送り出す上で、何より恐ろしいのは、自分の書いたものを人が読む、それも、見ず知らずの他人がそれを読むとはどういうことなのかを、はっきり思い知らされることにあります。ところがわたしときたら、それまでそれがどういうことなのか、およそ理解してはいなかったのです。もちろん、何百万という人びとが、わたしの作品を読んで高揚し、心が満ち足り喜んでくれるところを夢想して、うっとりすることはあったのですが。
ところがその何百万人が、元気を出す代わりに、腰を下ろしてわたしに手紙を書く、それも、開くのも恐ろしい手紙をよこすようになるとは、夢にも思いませんでした。その夏届いた三百通余りの手紙のうち、わたしに好意的だったものは、たったの十三通、しかもそのほとんどは、友人からでした。母でさえ、叱責の手紙をよこしたのです。
「お父さんもわたしも、『ニューヨーカー』に載ったあの小説は、どうにも好きにはなれませんでした」と容赦なく言ってきました。「なんだか最近の若い人たちときたら、こんな陰気な話ばかりが頭にあるみたいですが。どうしてみんなの気持ちを前向きにするようなものを書かないのでしょう」と。
七月も半ばになると、わたしはヴァーモントで安全に暮らせているだけでも、運が良かったのだ、と思うようになっていました。こんな小さな町では誰も「ニューヨーカー」という雑誌の名前など聞いたこともなかったし、まして、わたしの作品を読んでいる人などいなかったからです。何百万という人びと、加えてわたしの母が、わたしに対する嫌悪を表明しているというのに。
雑誌社では、通話記録は残していなかったのですが、雑誌社気付けで届くわたし宛ての手紙は、こちらで返事が出せるよう、すべて転送されてくることになっていました。「ニューヨーカー」宛ての手紙(そのいくつかは、編集長ハロルド・ロス氏個人に宛てられたものでしたが、その種のものがほかのどれより憎悪に満ちていました)には、雑誌社の方で返事を出し、その返事のコピーに元の手紙を添えて分厚い束にして、わたしの元へ届けられました。わたしはいまでも手紙をすべて保管していますが、もしこれが「ニューヨーカー」の読者を代表するサンプルであるなら、というか、その号に限っての読者大衆のサンプルであったとしても、わたしは即座に書くことそのものを断念したにちがいありません。
手紙から判断するなら、小説の読者というのは、何でもすぐ真に受ける人びとであり、無作法で、しばしば無教養で、しかも笑われることをことのほか怖れているようでした。差出人の多くは、「ニューヨーカー」が誌上で自分たちをバカにしようとしたのだ、と確信していて、なかでも警戒心に満ちた手紙は、大文字で 〔公開を禁ず〕 とか、〔この手紙を雑誌に転載しないでください〕 とか、きわめつけは 〔この手紙を公表するに当たっては、御社規定の原稿料をお支払いください〕 などと書かれていたのです。匿名の手紙も二、三混ざってはいましたが、それは破棄されることになりました。
それまで「ニューヨーカー」は掲載作品に対して、いかなる論評も加えることはなかったのですが、そのときに限っては一度、これまで掲載したどの作品より大きな反響があったことを明らかにしました。すでに新聞が数紙、同様のことを書いていました。真夏の頃、「サンフランシスコ・クロニクル」は一面で、この物語の意味するところを教えてほしいものだ、と書いたし、ニューヨークやシカゴの新聞は、一連のコラムの中で「ニューヨーカー」の定期購読が続々とキャンセルされていることを報じました。
おもしろいことに、夏の初めに来た手紙には、特徴的な三つのテーマがありました。当惑と、推測と、昔ながらの罵詈雑言、この三つの共通点を持っていたのです。後年、この作品がさまざまなアンソロジーに所収され、戯曲化されたりテレビ化されたり、さらには原形を留めぬほど、不可思議な改変を経てバレエにまでなったりするうちに、わたしの元に届く手紙の調子が変わってきました。概して言葉は礼儀正しくなり、その内容は、おもに質問に限られるようになりました。たとえば、この物語は一体何を意味しているのか、といったことです。
初期の手紙からは総じて、ショックのあまりに目をまん丸くして、無邪気に驚いている人びとの様子がうかがえました。その頃、人びとの頭を占めていたのは、この物語が意味するところなどではなかく、もっぱら、いったいどこでこうしたくじ引きが行われているのか、そこへ行けば自分も見物できるのか、といったことでした。一部を引用しますので、その声に耳を傾けてみてください。
【カンザス】 この風習が見られる場所・年をご教示ください。
【オレゴン】 この話に出てくる野蛮な風習は、いったいどこで行われているのでしょうか。
【ニューヨーク】 このような裁きの儀式が未だに存続しているのでしょうか。だとすれば、どこに?
【ニューヨーク】 この国(おそらくこの話の舞台はアメリカ合衆国であると思われます)のさまざまな場所で行われている伝統的儀式については、限られた知識しか持ち合わせていない読者にとって、ここに描かれた儀式の残酷さは、信じられないとまでは言えないにせよ、はなはだ常識を外れているように思えます。おそらく単にわたしがこうした風習や儀式に疎いだけのことなのでしょうが。
(この項つづく)
作品や本を世に送り出す上で、何より恐ろしいのは、自分の書いたものを人が読む、それも、見ず知らずの他人がそれを読むとはどういうことなのかを、はっきり思い知らされることにあります。ところがわたしときたら、それまでそれがどういうことなのか、およそ理解してはいなかったのです。もちろん、何百万という人びとが、わたしの作品を読んで高揚し、心が満ち足り喜んでくれるところを夢想して、うっとりすることはあったのですが。
ところがその何百万人が、元気を出す代わりに、腰を下ろしてわたしに手紙を書く、それも、開くのも恐ろしい手紙をよこすようになるとは、夢にも思いませんでした。その夏届いた三百通余りの手紙のうち、わたしに好意的だったものは、たったの十三通、しかもそのほとんどは、友人からでした。母でさえ、叱責の手紙をよこしたのです。
「お父さんもわたしも、『ニューヨーカー』に載ったあの小説は、どうにも好きにはなれませんでした」と容赦なく言ってきました。「なんだか最近の若い人たちときたら、こんな陰気な話ばかりが頭にあるみたいですが。どうしてみんなの気持ちを前向きにするようなものを書かないのでしょう」と。
七月も半ばになると、わたしはヴァーモントで安全に暮らせているだけでも、運が良かったのだ、と思うようになっていました。こんな小さな町では誰も「ニューヨーカー」という雑誌の名前など聞いたこともなかったし、まして、わたしの作品を読んでいる人などいなかったからです。何百万という人びと、加えてわたしの母が、わたしに対する嫌悪を表明しているというのに。
雑誌社では、通話記録は残していなかったのですが、雑誌社気付けで届くわたし宛ての手紙は、こちらで返事が出せるよう、すべて転送されてくることになっていました。「ニューヨーカー」宛ての手紙(そのいくつかは、編集長ハロルド・ロス氏個人に宛てられたものでしたが、その種のものがほかのどれより憎悪に満ちていました)には、雑誌社の方で返事を出し、その返事のコピーに元の手紙を添えて分厚い束にして、わたしの元へ届けられました。わたしはいまでも手紙をすべて保管していますが、もしこれが「ニューヨーカー」の読者を代表するサンプルであるなら、というか、その号に限っての読者大衆のサンプルであったとしても、わたしは即座に書くことそのものを断念したにちがいありません。
手紙から判断するなら、小説の読者というのは、何でもすぐ真に受ける人びとであり、無作法で、しばしば無教養で、しかも笑われることをことのほか怖れているようでした。差出人の多くは、「ニューヨーカー」が誌上で自分たちをバカにしようとしたのだ、と確信していて、なかでも警戒心に満ちた手紙は、大文字で 〔公開を禁ず〕 とか、〔この手紙を雑誌に転載しないでください〕 とか、きわめつけは 〔この手紙を公表するに当たっては、御社規定の原稿料をお支払いください〕 などと書かれていたのです。匿名の手紙も二、三混ざってはいましたが、それは破棄されることになりました。
それまで「ニューヨーカー」は掲載作品に対して、いかなる論評も加えることはなかったのですが、そのときに限っては一度、これまで掲載したどの作品より大きな反響があったことを明らかにしました。すでに新聞が数紙、同様のことを書いていました。真夏の頃、「サンフランシスコ・クロニクル」は一面で、この物語の意味するところを教えてほしいものだ、と書いたし、ニューヨークやシカゴの新聞は、一連のコラムの中で「ニューヨーカー」の定期購読が続々とキャンセルされていることを報じました。
おもしろいことに、夏の初めに来た手紙には、特徴的な三つのテーマがありました。当惑と、推測と、昔ながらの罵詈雑言、この三つの共通点を持っていたのです。後年、この作品がさまざまなアンソロジーに所収され、戯曲化されたりテレビ化されたり、さらには原形を留めぬほど、不可思議な改変を経てバレエにまでなったりするうちに、わたしの元に届く手紙の調子が変わってきました。概して言葉は礼儀正しくなり、その内容は、おもに質問に限られるようになりました。たとえば、この物語は一体何を意味しているのか、といったことです。
初期の手紙からは総じて、ショックのあまりに目をまん丸くして、無邪気に驚いている人びとの様子がうかがえました。その頃、人びとの頭を占めていたのは、この物語が意味するところなどではなかく、もっぱら、いったいどこでこうしたくじ引きが行われているのか、そこへ行けば自分も見物できるのか、といったことでした。一部を引用しますので、その声に耳を傾けてみてください。
【カンザス】 この風習が見られる場所・年をご教示ください。
【オレゴン】 この話に出てくる野蛮な風習は、いったいどこで行われているのでしょうか。
【ニューヨーク】 このような裁きの儀式が未だに存続しているのでしょうか。だとすれば、どこに?
【ニューヨーク】 この国(おそらくこの話の舞台はアメリカ合衆国であると思われます)のさまざまな場所で行われている伝統的儀式については、限られた知識しか持ち合わせていない読者にとって、ここに描かれた儀式の残酷さは、信じられないとまでは言えないにせよ、はなはだ常識を外れているように思えます。おそらく単にわたしがこうした風習や儀式に疎いだけのことなのでしょうが。
(この項つづく)