陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

死んだ肉の思想 その2.

2010-10-12 23:12:05 | weblog

高校のころ、突然、市民運動に参加するようになったクラスメイトがいた。それまでわたしたちと呑気に過ごしていた子が、急に顔つきまで変わってしまって、ことあるごとに日米軍事同盟であるとか、核兵器の問題をわたしたちに教えてくれる。最初は、なるほど、そんなふうになっているとは全然知らなかった、そういうことは新聞にも書いてないのか、もっと知らなきゃ、恐いことになるんだなあ、と感心して聞いていたのだ。

だが、そのうち、またその話か、と思うようになってしまった。社会科の授業で、先生に向かって、自説を蕩々と展開しだしたころには、わたしたちは「やれやれ……」とばかりにそっぽを向くようになってしまった。

大学に入ると、上級生に、フェミニズム運動に関わっている人がいた。みんなでテレビを観ていると、突然「いまのCM、おかしいと思わない?」という。なんで女がほかの家族を起こさなきゃならないの、誰よりも早く起きてなきゃいけないの、おまけにあの女、化粧もしてきれいな格好までしてる、朝からあんな格好しようと思ったら、一体何時に起きなきゃいけないの、といった具合である。

最初は、なるほど、そう言われればその通りだなあ、そんなこと考えてみたこともなかったなあ、と、今度もまた感心して聞いていた。確かに、その人の言うとおり、いままで自分がどれほど「当たり前でもなんでもないこと」を、何も考えないまま「当たり前」と思い込んでいたか、目を開かれるような思いがした。

だが、半年もしないうちに、その人が何を言うか、言い出す前から予想がつくようになった。その人がいないところで、ほかの子と冗談で口真似をしたり、話し合いの前には、その話をするとあの人が食いついてくるからやめておこう、などと、対策を練るようになってしまった。

こうした経験が教えてくれるのは、わたしたちの日常行為は、一定の考え方によって導かれている、ということだ。そうして、その考え方に従っているかぎり、そのような考え方があることすら気がつかない。その考えに従った行為を、特に意識することもない。一種の習慣として、「あたりまえ」として受け入れ、行為しているのだ。

ところが、日常とは異質な考え方にふれ、それに興味を持ち、深く関わっていった結果、その異質な考えを自分の思想信条にする人が出てくる。そういう人にとって、ほかの人は「何もわからずに平気でいる」人に見え、だから、これはこういうことなんだよ、と教えないではいられないのだろう。だが、せっかく教えてあげているのに、周りの人はみんな、自分を奇妙なものを見るときのような視線を送ってくる。だから、ますますそういう人は、かたくなになり、自説を述べるときの声は大きくなる。昨日書いたヴェジタリアンや、捕鯨反対論者なども、同種の人びとであると言えるだろう。

どうして、思想信条を持つ人、というのは、このように周囲から浮き上がってしまうのだろうか。

ひとつ言えるのは、わたしたちの生活は、実にさまざまに入り組んでいる、ということだ。

たとえば、健康のことを思えば、早寝早起きが必要だが、あれをやり、これをやり、と自分の思うことをやろうとすれば、どうしても寝る時間は遅くなる。健康のことを考えつつ、自分のやりたいことをやる時間も確保し、さらには掃除洗濯料理片づけといった日常生活を回していくことや、人とつきあっていくことの時間も確保しなければならない。あちらを考え、こちらを考え、荷物をたくさん載せた自転車で細い道を運転しているようなもので、バランスを巧みに取っていかないと、すぐに大変なことになってしまう。おまけに、思いもかけないようなこと、何か起こるまでは、そんな「荷物」を自転車に積んでいるなんて気がつきもしなかったような荷物が転がり落ちたりするのだ。

それを、もし、自分の意識している思想だけ、持っていこうとしたらどうなるだろう。現実にはそんなことはできるはずがない。それでも、できるだけ、その思想信条を押し通そうとしたら、ほかの人が意識的・無意識的にバランスをとりながらやっているようなことが一切押しのけられて、その思想信条だけに行動を委ねようとするだろう。

だから、端の人間は、じきにその人がつぎに何を言い出すか、見当がつくようになってくるのだ。どこから話し始めても、出口は全部一緒。そんな話をまともに聞く気にはなれない。

ひとつしか荷物を積んでいない自転車は、なるほど速く走れるかもしれない。考えなければならないこと、気をつけなければならないことがたったひとつですむのだから、バランスを取るのも容易だろう。

だが、走っているうちに、その走りは惰性になっていないか。しかも、ほかの荷物を全部、捨ててしまって、その自転車はどこまで進めるのだろうか。自転車の漕ぎ手は、喉は渇かないだろうか。

思想信条を持っている人は、どこまでそれを持ち続けられるものなのだろうか。

だとしたら、そんな思想信条など持たない方がいいのだろうか。
わたしはそうは思わない。すでにわたしたちの日常が、一定の考え方によって導かれているのだから。それとはちがう思想は、わたしたちが気がつかないでいるその「一定の考え方」を浮かび上がらせてくれる。わたしたちが無意識に影響され、考え、口にだしていることが、どんな考え方によって貫かれているかを教えてくれるのは、それとはちがう思想がわたしたちの前に立ち現れてくるときだからだ。

けれども、その日常生活と異質な思想というのは、たったひとつなのだろうか。自分の生活は、ほかの言葉を要求してはいないだろうか。

さらに、自分がある思想信条を持つということは、人に同じ思想信条を持つことを要求したり、期待したりすることなのだろうか。もっと、自分自身の問題、そう考える自分はいったい何をしているのだろうか、という反省なのではないだろうか。

こんなふうに考えていくと、「思想信条」という荷物も、たったひとつではありえないのだ。たくさん載せて、うまくバランスを取りながら、できるだけ遠くまで走れるようにしていくしかないのではないだろうか。

端から見て、特に思想信条があるように見える必要はない。それでも、いろんな思想があることを知り、いろんなふうに考え、そのなかから自分の考えを時間をかけて作っていく。そうして、考えるだけでなく、行為するときには、できるだけその考えに沿うようなものにしていく。

そんなふうに生きていきたい。

簡単なことではないけれど。