似たような話を続ける。
「どんでん返し」というのは、果たして日常の中で起こりうることなのだろうか。
その昔、こんなことがあった。
クラスに、バスケット部のエースで下級生からも人気の、カッコイイ男子がいた。
ある日、その男子の机の中にラブレターが入っていたのだ。差出人は、およそぱっとしない、クラスの中でもみんなから軽く扱われている(もっと有り体に言えば、軽くバカにされている)ような、誰がどう見ても彼とは不釣り合いな女の子だった。
彼も、自分がもらってうれしい相手であれば、そんなことはしなかったのだろうが、なにしろ相手が普段、友だち扱いしていないどころか、眼中にさえ入れていないような女の子である。「マイッタナー、ちょっとこれ、見てくれよ」と、その手紙を周囲の子に向かって放り出したのである。
おもしろがって手紙を音読する男の子も出てくるし、女の子たちも、あんな子がよくそんなことをするよね、とクスクス笑ったりもした。なにしろ、そうでなくてもその手のことには感じやすい年代である。少女マンガの出来の悪いパロディのような話ではないか。なんだかみんなすっかり興奮してしまい、直接、口には出さないまでも、クラス全体に、差出人の女の子を笑い者にするような空気が生まれてしまったのである。
そのうち、その男の子が好きだという噂の、クラスの中でも派手な女の子が、手厳しい調子で「自分の顔を鏡で見たことがあるの?」と、直接、本人に向かって、ひどく残酷なことを言い始めた。
――ねえ、ちょっと立ってみて。みんな、わたしとこの子、どっちが足、長い?
まあそんなことを、しつこく言い立てた。
こんな冴えない女の子が。
わたしの方がずっとカワイイのに。
何で、そんな身の程知らずの真似をするの。
その言葉は、周りにいるわたしたちの中にもある言葉だった。
だが、その言葉を実際に耳で聞かされて、今度は逆に、自分の中にある意地悪な気持ちを、鏡で見せつけられたような気がしてきた。わたしたちは、自分たちがひどいことをしていることに、徐々に気づいたのである。
誰も自分の顔を考えて人を好きになるわけではない。誰かを好きになってはいけない権利なんてあるわけじゃない。そうして、その好きという気持ちを伝えたくなるのも、自然なことじゃないか。
うつむいて自分の席に着いている差出人の女の子の横に立って、あんたなんかが○○君に好きだなんて言うなんて、百年早いよ、少なくとも体重十キロ減らして出ておいで……、という言葉を聞きながら、わたしたちの間に、そんなことを言う子の方がひどい、差出人の女の子がかわいそう、という空気が生まれてしまったのである。
突然、クラスのほとんどの子が、差出人の女の子に、ごめん、心ないことを言ってしまって、と謝り始めた。
ごめんね、ごめんね……。
その子は不器用に微笑みながら、いいの、いいの、と言うばかりだった。その結果、罪悪感から、みんなはその子に親切にし始めたのである。手紙をもらった男の子も、みんなと一緒に謝り、そのあとふたりで話をするようになった。
逆に、意地悪なことを言った女の子は、みんなの意地悪さの象徴とみなされて、そっぽを向かれてしまったのである。
まさに「どんでん返し」だ。
ところがである。そんな状態が続いたのは、いったい何日ぐらいだっただろうか。じき、手紙の差出人は、もとのぱっとしない、誰からもかえりみられることのない女の子に逆戻りし、ラブレターの相手の男の子は、彼女に向かって、朝の挨拶すらしなくなっていた。そうして、「意地悪な女の子」のイメージが定着してしまった女の子は、といえば、サッカー部だったか、陸上部だったかのキャプテンとつきあいだしていた。
ある期間で区切ってしまえば、どんでん返しも成立する。ところが日々は続く。さまざまなことがつぎつぎに起こり、わたしたちの気分はそのたびごとに揺れ動く。古い出来事の記憶は薄れていくが、それでも、わたしたちがいったん思い込んだ「その人のイメージ」は、新しい出来事で上書きされたはずなのに、じきに薄れ、いつのまにか元のイメージに戻ってしまっている。「どんでん返し」が起こった瞬間は、それがどんでん返しとも気がつかず、ただただ巻き込まれるが、事態が沈静化すれば、せっかくひっくり返ったどんでん返しも、たいていは元に戻ってしまう。
何かが起こったときというのは、わたしたちは最初、それが何だかわからない。その出来事が「何か」ということは、徐々に姿を現し始め、その出来事がはっきりした形を取るように、わたしたちがすすんで手助けをする。その出来事の姿をわたしたちがはっきり見届けた、と思ったところで、わたしたちの多くはその出来事から離れてしまう。ところが時間が続く限り、その出来事はほかの出来事へとつながっていき、決して終わることがない。わたしたちが忘れてしまっても、姿を変えてつづいていく。
事実は小説とはちがうのだ。仮に、「小説より奇」なことが起こったとしても、じきに日常の波に洗われ、色あせ、日常に織り込まれてしまう。
だとしたら、やはり小説というのは、しょせんは絵空事、意味のないことなのだろうか。
小説は、あるひとりの人間に起こった出来事を通して、人間の生きる意味を提示しようとする。そうして、小説を読むわたしたちは、それを自分の経験として読む(たとえば、少し前に訳したヘミングウェイの「キリマンジャロの雪」のように)。そこにふくまれたあらたなものを、自分の経験として、内に蓄える。
確かに始まりと終わりのある「どんでん返し」は、小説の中でしか味わえない。けれど、わたしたちは、いま思っている自分の見方がすべてではないこと、まちがいないと思っているその見方も、ほんのささいなきっかけでひっくり返るものだということを、小説を通じて知ることになる。思いこみの恐ろしさや、見かけにだまされること、そんな経験を、なによりもはっきりとさせてくれるのは、小説を通してなのである。
そうして、たとえ「事実は小説より奇なり」であっても、「奇」な事実をくっきりと浮かび上がらせてくれるのは、それを全体から切りとる「小説」の方法があってこそなのである。
「どんでん返し」というのは、果たして日常の中で起こりうることなのだろうか。
その昔、こんなことがあった。
クラスに、バスケット部のエースで下級生からも人気の、カッコイイ男子がいた。
ある日、その男子の机の中にラブレターが入っていたのだ。差出人は、およそぱっとしない、クラスの中でもみんなから軽く扱われている(もっと有り体に言えば、軽くバカにされている)ような、誰がどう見ても彼とは不釣り合いな女の子だった。
彼も、自分がもらってうれしい相手であれば、そんなことはしなかったのだろうが、なにしろ相手が普段、友だち扱いしていないどころか、眼中にさえ入れていないような女の子である。「マイッタナー、ちょっとこれ、見てくれよ」と、その手紙を周囲の子に向かって放り出したのである。
おもしろがって手紙を音読する男の子も出てくるし、女の子たちも、あんな子がよくそんなことをするよね、とクスクス笑ったりもした。なにしろ、そうでなくてもその手のことには感じやすい年代である。少女マンガの出来の悪いパロディのような話ではないか。なんだかみんなすっかり興奮してしまい、直接、口には出さないまでも、クラス全体に、差出人の女の子を笑い者にするような空気が生まれてしまったのである。
そのうち、その男の子が好きだという噂の、クラスの中でも派手な女の子が、手厳しい調子で「自分の顔を鏡で見たことがあるの?」と、直接、本人に向かって、ひどく残酷なことを言い始めた。
――ねえ、ちょっと立ってみて。みんな、わたしとこの子、どっちが足、長い?
まあそんなことを、しつこく言い立てた。
こんな冴えない女の子が。
わたしの方がずっとカワイイのに。
何で、そんな身の程知らずの真似をするの。
その言葉は、周りにいるわたしたちの中にもある言葉だった。
だが、その言葉を実際に耳で聞かされて、今度は逆に、自分の中にある意地悪な気持ちを、鏡で見せつけられたような気がしてきた。わたしたちは、自分たちがひどいことをしていることに、徐々に気づいたのである。
誰も自分の顔を考えて人を好きになるわけではない。誰かを好きになってはいけない権利なんてあるわけじゃない。そうして、その好きという気持ちを伝えたくなるのも、自然なことじゃないか。
うつむいて自分の席に着いている差出人の女の子の横に立って、あんたなんかが○○君に好きだなんて言うなんて、百年早いよ、少なくとも体重十キロ減らして出ておいで……、という言葉を聞きながら、わたしたちの間に、そんなことを言う子の方がひどい、差出人の女の子がかわいそう、という空気が生まれてしまったのである。
突然、クラスのほとんどの子が、差出人の女の子に、ごめん、心ないことを言ってしまって、と謝り始めた。
ごめんね、ごめんね……。
その子は不器用に微笑みながら、いいの、いいの、と言うばかりだった。その結果、罪悪感から、みんなはその子に親切にし始めたのである。手紙をもらった男の子も、みんなと一緒に謝り、そのあとふたりで話をするようになった。
逆に、意地悪なことを言った女の子は、みんなの意地悪さの象徴とみなされて、そっぽを向かれてしまったのである。
まさに「どんでん返し」だ。
ところがである。そんな状態が続いたのは、いったい何日ぐらいだっただろうか。じき、手紙の差出人は、もとのぱっとしない、誰からもかえりみられることのない女の子に逆戻りし、ラブレターの相手の男の子は、彼女に向かって、朝の挨拶すらしなくなっていた。そうして、「意地悪な女の子」のイメージが定着してしまった女の子は、といえば、サッカー部だったか、陸上部だったかのキャプテンとつきあいだしていた。
ある期間で区切ってしまえば、どんでん返しも成立する。ところが日々は続く。さまざまなことがつぎつぎに起こり、わたしたちの気分はそのたびごとに揺れ動く。古い出来事の記憶は薄れていくが、それでも、わたしたちがいったん思い込んだ「その人のイメージ」は、新しい出来事で上書きされたはずなのに、じきに薄れ、いつのまにか元のイメージに戻ってしまっている。「どんでん返し」が起こった瞬間は、それがどんでん返しとも気がつかず、ただただ巻き込まれるが、事態が沈静化すれば、せっかくひっくり返ったどんでん返しも、たいていは元に戻ってしまう。
何かが起こったときというのは、わたしたちは最初、それが何だかわからない。その出来事が「何か」ということは、徐々に姿を現し始め、その出来事がはっきりした形を取るように、わたしたちがすすんで手助けをする。その出来事の姿をわたしたちがはっきり見届けた、と思ったところで、わたしたちの多くはその出来事から離れてしまう。ところが時間が続く限り、その出来事はほかの出来事へとつながっていき、決して終わることがない。わたしたちが忘れてしまっても、姿を変えてつづいていく。
事実は小説とはちがうのだ。仮に、「小説より奇」なことが起こったとしても、じきに日常の波に洗われ、色あせ、日常に織り込まれてしまう。
だとしたら、やはり小説というのは、しょせんは絵空事、意味のないことなのだろうか。
小説は、あるひとりの人間に起こった出来事を通して、人間の生きる意味を提示しようとする。そうして、小説を読むわたしたちは、それを自分の経験として読む(たとえば、少し前に訳したヘミングウェイの「キリマンジャロの雪」のように)。そこにふくまれたあらたなものを、自分の経験として、内に蓄える。
確かに始まりと終わりのある「どんでん返し」は、小説の中でしか味わえない。けれど、わたしたちは、いま思っている自分の見方がすべてではないこと、まちがいないと思っているその見方も、ほんのささいなきっかけでひっくり返るものだということを、小説を通じて知ることになる。思いこみの恐ろしさや、見かけにだまされること、そんな経験を、なによりもはっきりとさせてくれるのは、小説を通してなのである。
そうして、たとえ「事実は小説より奇なり」であっても、「奇」な事実をくっきりと浮かび上がらせてくれるのは、それを全体から切りとる「小説」の方法があってこそなのである。