『マディソン郡の橋』という小説が、異様なくらい人気を博した年、わたしは英会話教室でバイトしていた。そこの主婦クラス(という名称があったわけではないのだが、平日昼間のクラスに来るのは専業主婦ばかりで、わたしたちはいつもその時間帯のことを主婦クラスと称していたのである)に来ているひとりから、「これを一度、読んでみて」と押しつけられたのである。
どうしようもなく素人の小説だな、と思ったのは、臆面もなく自分を主人公になぞらえて小説を書いているからだった。ちょうど、小学生にお話を書かせるとそんなものを書く。まさに「こうありたい自分」が主人公になって、日ごろ仲の悪い子をそのまま敵役として登場させ、主人公が相手をいともやすやすとうち負かすのである。
もちろん、プロの書き手もそんな人は何人かいて、たとえばネルソン・デミルはヴェトナム帰還兵の話を書いても、マフィアの隣りに住んでいる敏腕弁護士の話を書いても、主人公はみな作者の分身で、知的で皮肉で趣味の良い、金太郎飴のように同じ人物だ。ただ、デミルの場合は熟練した小説の書き手であるから、あまりあからさまなことはしない。ちゃんと自分の分身でも、冷静にひどい目に遭わせるし、過ちも犯させるし、穴にも突き落とす。最終的に、主人公は救われるが、失うものもかならずあって、万々歳とはいかない。
だが、素人の書き手は、主人公は自分だから、その主人公をひどい目に遭わせることができない。主人公は百パーセントすばらしい人間だから、災いはかならず「悪い」人間によってもたらされる。ちょうどスティーヴン・セーガルの映画の主人公のようなもので、徹頭徹尾、強く賢く人間的にも優れた主人公は、ひたすら連勝しつづけるのだ。
主人公は作者の「こうありたい」という理想の人間像だから、逆に言うと、作者がどのくらいの理想を持っているかがあからさまになる。『マディソン郡の橋』では、理想とするのがカメラマンで、女に好かれ、おまけに性的な面でも凄腕なのである。ふつう、こうした制約のある恋愛関係を描くのなら、あくまでもそれは「かなわぬ恋」、ふたりは思い合うだけで、肉体的には結ばれたりはしないはずだろう。けれども主人公=作者だから、作者は主人公にその面でもすばらしいことを書かずにはいられないのだ。わたしは読みながら笑ってしまった。これを書きながら、作者はさぞかし良い気分だったにちがいない。書くだけで良い気分でいられたのだから、書いた後まで良い気分にしてやる必要はない。つまり、こんな私的な満足に協力してやる必要もないだろう。
翌週、やってきた人に、「どうだった?」と聞かれ、わたしは思ったままを、つまり、「笑っちゃいましたよ」と答えて返した。すると、その人はちょうどわたしが横っ面を張りでもしたかのような傷ついた顔をしたのである。そうして、「わたしは読み終わってから三十分、涙が止まらなかったけど、若い人にはこういう話はわからないんでしょうね」と言ったのだった。
考えてみれば、その人が無理矢理にもわたしに読ませようとしたのは、一緒に感動を共有したかったのだろう。だからといってわたしが感動する必要もないが、失礼なことを言う必要もないのだ。もう少し、口を慎まなくては、とあとになって申し訳ないことをした、と考えたものだ。
だが、それにしても、あんな小説で、よく泣いたりできるものだ、とは思った。ドン・キホーテが騎士物語を読むように、つまり、自分を女主人公になぞらえて読みでもしない限り、ストーリーは単純だし、制約も単に「結婚しているから」という一事に過ぎない。あまりに一本調子で、決して決して感動できるような代物ではない。つまりは主婦というのはそんなにも、「突然やってきて、自分を見つけてくれる誰か」を求めているものなのだろうか、といぶかしく思った。
恋愛小説というのは、『ロミオとジュリエット』(これは小説ではなく戯曲だが)にしても、『グレート・ギャツビー』にしても、『武器よさらば』にしても、主人公が誰かに出会うことによって、それまで自分が属していた社会に適応できなくなり、そこから脱出しようとして、自分自身を新たに作りかえていくというのが、大きな柱になっている。
出会ったことによって、相手と共に生きていきたい、と願う。そう考えた主人公は、相手が所属する社会秩序に合わせて自分を作りかえようとする(ジェイ・ギャツビーのように、フレデリック・ヘンリーのように)。自分を作りかえるということは、それは創造にほかならないから、主人公は文字通り産みの苦しみを味わう。そうして、その苦しみを経た主人公は、恋をする前としたあとでは、別の人間に生まれ変わっているのだ。
小説というより、おそらく恋愛がそうしたものだからこそ、多くの人は特に大人になろうとする時期、自分を新たに作りかえていこうとする時期に、恋愛を経験するのだろう。
ところが『マディソン郡』では、主人公は揺らがない。女主人公も揺らがない。自分たちが結ばれないのは、一方が婚姻関係を結んでいるからで、それは自分たちの愛とは関係ない、と自己肯定に終始しているから、話は深まりようがない。そこに果たしてそれは愛と呼べるようなものなのだろうか。もともとそんなものなどないのに、結ばれなかった、と悲恋として描いているだけではあるまいか。そもそもそこになかったものを、「失われた」と言ってしまえば、なんだかあるときまではそこにあったように錯覚できるかのように。
おそらく、「笑っちゃいましたよ」と言う代わりに、そんなふうにちゃんと言えば良かったのだろうが、当時のわたしはそこまで整理して言うことができなかった。というか、理路整然と言えば言うほど、その人は傷ついたかもしれない。
それから何年かして、ブームも去った頃、その小説は映画化された。もちろんその映画を見ることはなかったけれど、クリント・イーストウッドが演じた主人公は、原作の主人公よりイーストウッド自身の、生きた人間の重み深みが加わって、おそらくずっと良かったにちがいない。三十分間泣き続けた人は、見ただろうか。メリル・ストリープだと、自分をなぞらえることはできなかったか。
どうしようもなく素人の小説だな、と思ったのは、臆面もなく自分を主人公になぞらえて小説を書いているからだった。ちょうど、小学生にお話を書かせるとそんなものを書く。まさに「こうありたい自分」が主人公になって、日ごろ仲の悪い子をそのまま敵役として登場させ、主人公が相手をいともやすやすとうち負かすのである。
もちろん、プロの書き手もそんな人は何人かいて、たとえばネルソン・デミルはヴェトナム帰還兵の話を書いても、マフィアの隣りに住んでいる敏腕弁護士の話を書いても、主人公はみな作者の分身で、知的で皮肉で趣味の良い、金太郎飴のように同じ人物だ。ただ、デミルの場合は熟練した小説の書き手であるから、あまりあからさまなことはしない。ちゃんと自分の分身でも、冷静にひどい目に遭わせるし、過ちも犯させるし、穴にも突き落とす。最終的に、主人公は救われるが、失うものもかならずあって、万々歳とはいかない。
だが、素人の書き手は、主人公は自分だから、その主人公をひどい目に遭わせることができない。主人公は百パーセントすばらしい人間だから、災いはかならず「悪い」人間によってもたらされる。ちょうどスティーヴン・セーガルの映画の主人公のようなもので、徹頭徹尾、強く賢く人間的にも優れた主人公は、ひたすら連勝しつづけるのだ。
主人公は作者の「こうありたい」という理想の人間像だから、逆に言うと、作者がどのくらいの理想を持っているかがあからさまになる。『マディソン郡の橋』では、理想とするのがカメラマンで、女に好かれ、おまけに性的な面でも凄腕なのである。ふつう、こうした制約のある恋愛関係を描くのなら、あくまでもそれは「かなわぬ恋」、ふたりは思い合うだけで、肉体的には結ばれたりはしないはずだろう。けれども主人公=作者だから、作者は主人公にその面でもすばらしいことを書かずにはいられないのだ。わたしは読みながら笑ってしまった。これを書きながら、作者はさぞかし良い気分だったにちがいない。書くだけで良い気分でいられたのだから、書いた後まで良い気分にしてやる必要はない。つまり、こんな私的な満足に協力してやる必要もないだろう。
翌週、やってきた人に、「どうだった?」と聞かれ、わたしは思ったままを、つまり、「笑っちゃいましたよ」と答えて返した。すると、その人はちょうどわたしが横っ面を張りでもしたかのような傷ついた顔をしたのである。そうして、「わたしは読み終わってから三十分、涙が止まらなかったけど、若い人にはこういう話はわからないんでしょうね」と言ったのだった。
考えてみれば、その人が無理矢理にもわたしに読ませようとしたのは、一緒に感動を共有したかったのだろう。だからといってわたしが感動する必要もないが、失礼なことを言う必要もないのだ。もう少し、口を慎まなくては、とあとになって申し訳ないことをした、と考えたものだ。
だが、それにしても、あんな小説で、よく泣いたりできるものだ、とは思った。ドン・キホーテが騎士物語を読むように、つまり、自分を女主人公になぞらえて読みでもしない限り、ストーリーは単純だし、制約も単に「結婚しているから」という一事に過ぎない。あまりに一本調子で、決して決して感動できるような代物ではない。つまりは主婦というのはそんなにも、「突然やってきて、自分を見つけてくれる誰か」を求めているものなのだろうか、といぶかしく思った。
恋愛小説というのは、『ロミオとジュリエット』(これは小説ではなく戯曲だが)にしても、『グレート・ギャツビー』にしても、『武器よさらば』にしても、主人公が誰かに出会うことによって、それまで自分が属していた社会に適応できなくなり、そこから脱出しようとして、自分自身を新たに作りかえていくというのが、大きな柱になっている。
出会ったことによって、相手と共に生きていきたい、と願う。そう考えた主人公は、相手が所属する社会秩序に合わせて自分を作りかえようとする(ジェイ・ギャツビーのように、フレデリック・ヘンリーのように)。自分を作りかえるということは、それは創造にほかならないから、主人公は文字通り産みの苦しみを味わう。そうして、その苦しみを経た主人公は、恋をする前としたあとでは、別の人間に生まれ変わっているのだ。
小説というより、おそらく恋愛がそうしたものだからこそ、多くの人は特に大人になろうとする時期、自分を新たに作りかえていこうとする時期に、恋愛を経験するのだろう。
ところが『マディソン郡』では、主人公は揺らがない。女主人公も揺らがない。自分たちが結ばれないのは、一方が婚姻関係を結んでいるからで、それは自分たちの愛とは関係ない、と自己肯定に終始しているから、話は深まりようがない。そこに果たしてそれは愛と呼べるようなものなのだろうか。もともとそんなものなどないのに、結ばれなかった、と悲恋として描いているだけではあるまいか。そもそもそこになかったものを、「失われた」と言ってしまえば、なんだかあるときまではそこにあったように錯覚できるかのように。
おそらく、「笑っちゃいましたよ」と言う代わりに、そんなふうにちゃんと言えば良かったのだろうが、当時のわたしはそこまで整理して言うことができなかった。というか、理路整然と言えば言うほど、その人は傷ついたかもしれない。
それから何年かして、ブームも去った頃、その小説は映画化された。もちろんその映画を見ることはなかったけれど、クリント・イーストウッドが演じた主人公は、原作の主人公よりイーストウッド自身の、生きた人間の重み深みが加わって、おそらくずっと良かったにちがいない。三十分間泣き続けた人は、見ただろうか。メリル・ストリープだと、自分をなぞらえることはできなかったか。