中学のころ、親しいクラスメイトが何人か集まって、文化祭で劇をやろうという話になった。わたしが台本を書くよ、と勇んで名乗りをあげ、どんな話にしようか、しばらく頭をひねった。
当時のわたしが何より好きだったのは、あっと驚く話、最後の最後でどんでん返しが待っているような話だった。すでに読んでいて結末はわかっているような話でも、だからこそいっそうその途中や伏線の張り方がおもしろく、繰りかえし、飽きることなく読んだものだった。そんな話なら、みんなに「おもしろい」と思ってもらえるにちがいない。
かといって、衣装や舞台装置のこともある。そんなに大がかりなことができるわけではない。観客も同じ学校の生徒たちである。自分たちと同じような中学生の話にしよう、と思った。荒唐無稽ではない話、誰もに思いあたることがあるような。
そこで考えた「どんでん返し」が、いやな子だ、と思っていた子が、実は誤解だった、と、最後であっと思わせてはどうだろう、ということだった。劇を見ている人にも、なんだ、いやなヤツだな、と思わせる。ところが最後にそれが誤解だったことがわかる、というどんでん返しである。
誤解を受ける人物を主人公にすると、当然主人公は悩んだり、葛藤したりするだろう。そうなると、話がシリアスになりすぎるかもしれない。だから、主人公の友だちにしよう。ある出来事がきっかけで、みんなから誤解される子がいる。ところがその子も、ある人物をかばって、誤解を解こうとする代わりに、自分から進んで、みんなが誤解しているような、悪い子のふりをする。
主人公は最初、友だちはそんな子ではない、と弁護するのだが、その相手からひどいことを言われ、傷つき、彼女から離れていく。
ところがある出来事がきっかけで誤解は解けて、みんなは彼女に謝る。主人公も心から詫び、ふたりは仲直りする、というものだった。
こんなふうにまとめてみると、えらくすっきりしておもしろそうにも思えるのだが、それは骨子だけを取り出しているからで、実際はいまのわたしがずいぶん整理し、逆に足りないところは補っているのだろう。おそらくはこんなにすっきりとまとまったものではなかっただろうし、もっとわかりにくかったり、散漫だったりしたのだと思う。
ともかく、舞台に立った子たちがみんなそれぞれに熱演し、見ている方も感情移入しやすかったのか、劇は拍手喝采を浴びた。ついでにわたしも何人かから、おもしろかった、よく書けていたと褒められて、得意になったものである。
ところがやがて、あの子ってイヤな子だよね、と、誤解される登場人物のことを批判する友だちが現れた。当時、その子はわたしと仲が良く、その気安さもあったのだろうが、そう言われて、わたしの方は内心かなりムッとした。なにしろ自分としては、鍵を握る人物だけに、苦心に苦心を重ね、その分思い入れもある登場人物だったのだから。
その後何年か経って、イーディス・ウォートンの『エイジ・オブ・イノセンス』という小説を読んだ。
この小説では、主人公のニューランド・アーチャーは、ヨーロッパ帰りの伯爵夫人オレンスカに恋愛感情を抱く。だが、主人公を取り巻く環境は、出戻りの年上女性との恋愛などは許さない。主人公は、自分の恋心を押し殺して、誰もが妻にふさわしいと認める若い女性メイ・ウェランドと結婚する。
退屈な三十年の結婚生活を経て、ニューランドはあるきっかけから、最初から自分の妻が、オレンスカと自分のことを知っていたことを知る。若く純真とばかり思っていたメイは、実はニューランドの恋愛感情など、すべてお見通しで、オレンスカと別れさせる算段までしていたのである。ニューランドは、メイの手のひらの上で転がされていたのだ。
このどんでん返しでわかるのは、知は力なり、ではないけれど、知っていることは、力関係で相手より上回る、ということだ。
Aさんが「わたしは○○ということを知っている」とBさんに告げるとする。BさんはAさんが知っていることを知っているから、このとき、ふたりの力関係は対等だ。
ところがAさんが「○○を知っている」ことを隠すとする。BさんはAさんが知っていることを知らないために、力関係はAさんが上回る。Aさんは、つねに「Bさんは、わたしが知っていることを知らないんだ」という心理的優位に立っている。
わたしが劇で書いた、みんなから誤解されている女の子も、当時、書いていたわたしも気がつかなかったのだが、彼女が誤解を積極的に解こうとしなかったのは、「自分だけは知っている」という心理的優位を手放そうとしなかったからなのかもしれないのだ。確かに「イヤな子」という評価は当たっているのかもしれない、と思うようになった。
それからさらに時間が過ぎて、もうひとつわかったことがある。
「どんでん返し」が楽しいのは、最後の最後にわたしたちが真相を知ることによって、それまで誰かが隠していたことが明らかになり、隠すことによってわたしたちより上回っていた力関係が、最後に逆転するからなのである。
隠すことによって心理的優位にいた登場人物は、それを暴かれて、今度は読者の方が優位に立つ。読者は最後の場面ですべてを俯瞰することができる。神の視点からいっさいを見渡せるのだ。日常生活では決して立つことのできない視点から。
もちろん「どんでん返し」が楽しいのは、あっという驚きの楽しさもある。けれども、何より、すべてを知る、すべてを見渡せる、そんな地位を得ることのできる楽しさなのだろう。
当時のわたしが何より好きだったのは、あっと驚く話、最後の最後でどんでん返しが待っているような話だった。すでに読んでいて結末はわかっているような話でも、だからこそいっそうその途中や伏線の張り方がおもしろく、繰りかえし、飽きることなく読んだものだった。そんな話なら、みんなに「おもしろい」と思ってもらえるにちがいない。
かといって、衣装や舞台装置のこともある。そんなに大がかりなことができるわけではない。観客も同じ学校の生徒たちである。自分たちと同じような中学生の話にしよう、と思った。荒唐無稽ではない話、誰もに思いあたることがあるような。
そこで考えた「どんでん返し」が、いやな子だ、と思っていた子が、実は誤解だった、と、最後であっと思わせてはどうだろう、ということだった。劇を見ている人にも、なんだ、いやなヤツだな、と思わせる。ところが最後にそれが誤解だったことがわかる、というどんでん返しである。
誤解を受ける人物を主人公にすると、当然主人公は悩んだり、葛藤したりするだろう。そうなると、話がシリアスになりすぎるかもしれない。だから、主人公の友だちにしよう。ある出来事がきっかけで、みんなから誤解される子がいる。ところがその子も、ある人物をかばって、誤解を解こうとする代わりに、自分から進んで、みんなが誤解しているような、悪い子のふりをする。
主人公は最初、友だちはそんな子ではない、と弁護するのだが、その相手からひどいことを言われ、傷つき、彼女から離れていく。
ところがある出来事がきっかけで誤解は解けて、みんなは彼女に謝る。主人公も心から詫び、ふたりは仲直りする、というものだった。
こんなふうにまとめてみると、えらくすっきりしておもしろそうにも思えるのだが、それは骨子だけを取り出しているからで、実際はいまのわたしがずいぶん整理し、逆に足りないところは補っているのだろう。おそらくはこんなにすっきりとまとまったものではなかっただろうし、もっとわかりにくかったり、散漫だったりしたのだと思う。
ともかく、舞台に立った子たちがみんなそれぞれに熱演し、見ている方も感情移入しやすかったのか、劇は拍手喝采を浴びた。ついでにわたしも何人かから、おもしろかった、よく書けていたと褒められて、得意になったものである。
ところがやがて、あの子ってイヤな子だよね、と、誤解される登場人物のことを批判する友だちが現れた。当時、その子はわたしと仲が良く、その気安さもあったのだろうが、そう言われて、わたしの方は内心かなりムッとした。なにしろ自分としては、鍵を握る人物だけに、苦心に苦心を重ね、その分思い入れもある登場人物だったのだから。
その後何年か経って、イーディス・ウォートンの『エイジ・オブ・イノセンス』という小説を読んだ。
この小説では、主人公のニューランド・アーチャーは、ヨーロッパ帰りの伯爵夫人オレンスカに恋愛感情を抱く。だが、主人公を取り巻く環境は、出戻りの年上女性との恋愛などは許さない。主人公は、自分の恋心を押し殺して、誰もが妻にふさわしいと認める若い女性メイ・ウェランドと結婚する。
退屈な三十年の結婚生活を経て、ニューランドはあるきっかけから、最初から自分の妻が、オレンスカと自分のことを知っていたことを知る。若く純真とばかり思っていたメイは、実はニューランドの恋愛感情など、すべてお見通しで、オレンスカと別れさせる算段までしていたのである。ニューランドは、メイの手のひらの上で転がされていたのだ。
このどんでん返しでわかるのは、知は力なり、ではないけれど、知っていることは、力関係で相手より上回る、ということだ。
Aさんが「わたしは○○ということを知っている」とBさんに告げるとする。BさんはAさんが知っていることを知っているから、このとき、ふたりの力関係は対等だ。
ところがAさんが「○○を知っている」ことを隠すとする。BさんはAさんが知っていることを知らないために、力関係はAさんが上回る。Aさんは、つねに「Bさんは、わたしが知っていることを知らないんだ」という心理的優位に立っている。
わたしが劇で書いた、みんなから誤解されている女の子も、当時、書いていたわたしも気がつかなかったのだが、彼女が誤解を積極的に解こうとしなかったのは、「自分だけは知っている」という心理的優位を手放そうとしなかったからなのかもしれないのだ。確かに「イヤな子」という評価は当たっているのかもしれない、と思うようになった。
それからさらに時間が過ぎて、もうひとつわかったことがある。
「どんでん返し」が楽しいのは、最後の最後にわたしたちが真相を知ることによって、それまで誰かが隠していたことが明らかになり、隠すことによってわたしたちより上回っていた力関係が、最後に逆転するからなのである。
隠すことによって心理的優位にいた登場人物は、それを暴かれて、今度は読者の方が優位に立つ。読者は最後の場面ですべてを俯瞰することができる。神の視点からいっさいを見渡せるのだ。日常生活では決して立つことのできない視点から。
もちろん「どんでん返し」が楽しいのは、あっという驚きの楽しさもある。けれども、何より、すべてを知る、すべてを見渡せる、そんな地位を得ることのできる楽しさなのだろう。