陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

Rush "Losing it"(つづき)

2006-12-21 22:06:41 | 翻訳
歌ではなく、曲ではなく、ひとつの〈音〉が、自分のなかでぬきさしならないものになっていくことがある。
それまで知らなかった〈音〉が、気がつかないまま自分のうちに刻まれ、そうしてそのことに気がついたときには、その〈音〉を知らなかったころと世界は決定的にちがうものになっていた。
まるで、自分にとってたいせつな人を知ったあとのように。

すぐには気がつかなかった。初めて聴いてから、二年以上がたっていた。
ほかの音をいくつも聴いて、そうして、いろんなことがわたし自身にも起こって、それでやっと、ああ、あの〈音〉が最初の音だったのだ、と気がついた。あれから、すべてが始まったのだ、と。

初めて聴いた RUSH のアルバムは《2112》だった。図書館のラックにあったCDの、タイトルがひどく気になって借りてきたのだった。
そのときは、よくわからなかった。どんなふうに聴いたらいいのか、どこを聴いたらいいのかさえ。
ただ、ボーカルが変な声だと思っただけだったし、ライナー・ノートに詞がアイン・ランドの作品にインスパイアされたもの、と書いてあるのを読んで、どう考えても自分には受け容れがたい思想家としてアイン・ランドを知っていたわたしは、そういう要素を抜きに聴くこともできなかった。

それから一年ほどして、わたしは Dream Theater を聴くようになる。
Dream Theater が影響を受けたバンド。そう思って《2112》を聴きなおしてみれば、確かに通じる音もあるような気がした。それでもわからないことにはかわりがなかった。
ただ、ものすごく気持ちが良かった。メロディラインが気に入った、とか、気持ちよく乗れる、とか、そういうのではない。聴いていると、のどが渇いているところに水を飲んで、手足のすみずみまでその水が行き渡った感じ、身体全体が生き返った感じがする。

それが、パーカッションの音のせいだということには、じき、気がついた。音が細かければ細かいほど、気持ちがいい。小刻みな音のひとつひとつ、ほとんどトレモロのような音符に至るまで、まったく同じ強さで、同じ音の幅を持って叩かれている。このドラムの音を聞いて初めて、ほかの人の出す音が、どれほどテクニシャンと言われる人のそれであっても、必ずしもそうではないということに逆に気がついたのだった。

精密機械のように正確な、という表現があるけれど、実際に、精密機械の規準を作り上げているものは人間の手によるものだということを、わたしは町工場の旋盤工であり作家でもある小関智弘の本で読んだことがある。
 機械がどんなに発達し、どんなに精密な加工ができるようになった現在でも、精密な定盤は、人間の手でしか作ることはできない。一メートル四方の平面のどの点を拾っても、ミクロンの単位で平坦度が保証されるような定盤は人間の手で削る。…ひとりの青年の手が作ったその規準定盤を原器として、日本中の精密工業がいまも成り立っている。
(小関智弘『鉄を削る 町工場の技術』ちくま文庫)

精密機械の精度を保証するのが、人間の感覚であるというのを、わたしは非常におもしろいと思ったし、一方で、その通りだろうとも思ったのだった。
「正確さ」という感覚は、あくまでも人間のものであって、機械のものではない。
それが根本的に依拠するのは、人間の感覚以外のはずがないのだ。

このパーカッションの音を聴いて、わたしが思ったのもそのことだった。
メトロノームの規準となるような、人間の感覚。
それがここにあるのだ、と。
だからこそ、これを聴いていて、こんなにも気持ちがいいのだ。
技術とかどうとかいう前に、これがリズムだから。

楽器の演奏にしても、歌を歌うことにしても、あるいはダンスでも、また絵でも、演劇でも、詩や散文でも、表現行為というものには、かならず自己言及の要素がある。わたしたちは音楽を聴いたり、本を読んだりしながら、同時にその人がどんな人なのか、聞き取ったり、読みとったりしている。もちろんそれはその人がどんな人だ、と理解するような性質のものばかりではない。もっと曖昧で、不確かなものではある。それでも確かにその人の手触りをわたしたちは自分の内にストックしていく。たとえその人が「自分」というものを伝えようなどとまったく意識のうちになかったとしても、表現行為というのは、表現する人を、否応なく語ってしまうものなのである。

ところがどういうわけか、このニール・パートという人のドラムは、どれだけ気持ちよさを感じても、この人の手触りを伝えないのだった。ボーカルとベースを弾いているゲディ・リーも、ギターを弾いているアレックス・ライフソンも、なんとなくその人の「感じ」が伝わってくる。けれども詞を書いているニール・パートが「どんな人か」がどうしても聞こえてこない。もちろん曲のなかで、ほかの楽器や、あるいは歌詞にあわせて、驚くほど表情を変えるドラムの音なのだけれど、叩いている人を伝えない音なのだ。《2112》の音に、リズムだけでなく、広がりと奥行きと独特の複雑さを加えているのはまちがいなくこのドラムなのだけれど、同時に、どこまでいってもよくわからない部分がどうしても残っていくのも、このドラムのせいだった。

それから《Grace Under the Pressure》というアルバムを聴いて、さらに《Signals》を聴き、この"Losing It" を聴いた。そうして、ニール・パートがヘミングウェイのどういうところに惹かれたのかを知り、そうしてようやくニール・パートの〈音〉の一端に手が届いたように思ったのだった。

つまり、ヘミングウェイが感情的な言葉を排し、細部に至るまで正確な言葉を配置しようとしたように、この人は音のなかから夾雑物を取り除き、正確で精密な音を重ねているのだ、と。

しばらくのあいだ気に入って集中的に読む、とか、ある年代に夢中になる、といった関わり方ではなく、もっと長い間、深い関係を結んでいくような作家というのは、やはり読み手とは無関係ではないのだろう。音楽家でも、画家でもそうだと思うのだけれど、長い年月を通じて、深いところで結びつくような人とは、どこか響き合うものがあるのだと思う。
おそらくそういう音を出していたニール・パートだから、ヘミングウェイの文体に共鳴していったのだ。


(シマッタ、まだ終わらない。明日まで続いてしまう。興味ない人、ごめんなさい)