陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

Rush "Losing it" その3.

2006-12-22 22:47:24 | 翻訳
ギター・ソロでもピアノ・ソロでもいいのだけれど、プレイヤーは自分の圧倒的な技量を見せるために、速弾きというのをやってみせることがある。ただ、これは見かけが派手なわりには、そこまでたいしたものではない、とわたしは言い切ってしまいたい。

わたしはピアノの経験しかないのだけれど、どれだけ複雑な指使いを要求するものでも、パッセージごとに区切って、最初はゆっくりから練習を始めていくものなのだ。このとき気をつけるのは、音の粒をそろえること。指使いが安定し、音の長さ強さを正確に揃えて弾くことができるようになったら(このときだれかに聞いてもらったほうがいい)、そのパッセージをつなげていく。そうしてそこから速度を少しずつあげていく。最初はゆっくり。だんだん速く。もっと速く。可能な限り、速さを上げていく。
旋律がどれだけ複雑になったとしても、基本は同じことなのだ。
もちろん、これは簡単なことではない。肉体的な問題もあるだろう。それでも練習を積んでいけば、つまり生活管理と訓練という献身の度合いに応じて、だれでもある程度は可能な領域なのである。

だれにでもたどりつけるわけではないのは、速弾きを含むさまざまな練習のなかで、自分の〈音〉を作り上げていくことだ。

ピアノにしてもドラムにしても、叩いて音を出す打楽器は、ひとつの音だけとりあげれば、だれでも同じ音が出せるはずだ。犬だって、猫だって、鍵盤を叩けば音が出せる。
ところが実際には、人によって音というのはまるでちがう。
たとえばセロニアス・モンクとチック・コリアとビル・エバンスとゴンサロ・ルバルカバのピアノの音がまるっきりちがうことは、おそらくそれほどジャズを聴いたことがない人でもわかるだろうし、キース・ムーンとビル・ブラッフォードとジョン・ボーナムとマイク・ポートノイのドラムも、ロックを聴いたことがない人でも、音がちがうのがわかるだろうと思う。それくらいちがう。ものすごくちがう。

どれだけ速く弾いても、どんなに小さい音を出しても、どんな場面でも、否応なく出しているその人だけの〈音〉。そうしてそれは譜面にも書いてないし、だれかの音を聴いて出せるようになるものでもない。たったひとりで、自分の日々のなかから、自分の成熟の度合いに応じて独自に作りだしていかなければならない〈音〉なのだ。そうして首尾良く自分の〈音〉を見つけたとしても、それは音楽を続けていくかぎり、作りつづけていかなくてはならない。

アイン・ランドの『水源』という小説のなかに、若い彫刻家が出てくる。この彫刻家は大変な「才能」を持っている人物なのだけれど、あまりにその「才能」が突出しているために、大衆には理解されず、腐った彫刻家は飲んだくれている。ところが「天才」建築家である主人公がその彫刻家の才能を認めて仕事を依頼するや、突如としてその彫刻家は大傑作を作り上げる、という場面があった。
主人公の「天才」建築家がいきなり「才能」を発揮するのは、それはストーリーの展開上、仕方がないことなのかもしれないけれど、その「天才」を取り巻く「準天才グループ」もそうであるのを見たとき、この作家は「才能」というものを、このようにとらえているのだろうな、と思ったのだった。

少なくとも、わたしは「才能」というものを、そんなふうな、一種の実体的なものであるようなとらえかたはしない。「才能がある人」と「才能がない人」のあいだに線を引いて、あらかじめ線のこちら側にいる「才能がある人」はどうやっていても「才能」を発揮できる、というふうには思わない。たとえひとつの仕事で「才能」を発揮したとしても、その人がつぎの蓄積をやめた時点で、即座に枯渇を始めてしまう。そんな例ならいくらでも転がっているではないか。ヘミングウェイを含めて。

ニール・パートが愛読したのはアイン・ランドの何なのかは知らないけれど、それはそれで理解できるような気がする。自分がどこかに行き着けると信じて、たったひとり成熟を待ちながら訓練に訓練を重ねている十代の男の子が、自分を「線のこちら側」に生まれついた人間と信じて、アイン・ランドの作品を心の支えにしたとしても、まったく不思議はない。手近にニーチェがあれば、きっと十代のニール・パートは、ニーチェを愛読しただろう。おそらくそういうものだったろうと思うのだ。

けれども自分の〈音〉を見つけ、それを作り上げていく段階で、ヘミングウェイの抑制された言語の純粋さに響き合うものを感じたのだろう。
「世界を駆けめぐるよう生まれついた人がいる、夢の世界を生きるために」とヘミングウェイにあこがれ、そうして、後期の作品のなかに「それ」が失われていくのを見、「それが命を失っていくのを見ることは悲しい、知らないままでいたのより」と書いたのだろう。

《2112》から《Signals》そうして《Grace Under the Pressure》(このアルバム名は雑誌「ニュー・ヨーカー」でのインタヴューに答えたヘミングウェイの"Courage is grace under pressure.(勇気とは、たとえプレッシャーを受けても気品をもって振る舞うことである)"から来ているのだろう)と三枚のアルバムを聴いて、少しずつ変わっていく、それでもあくまでもニール・パートの〈音〉を知っていった。
抑制された夾雑物のない音は、その〈音〉を出す人の手触りを、やはり伝えることはない。けれども、おそらくその〈音〉は、同時にニール・パートという人を作り続けていく音なのだろうと思う。

ゲディ・リーの歌うニール・パートの歌からは、ニール・パートの言葉が聞こえる。
ともすれば言葉は情緒に流れてしまう。歌も、音楽もそうだ。
けれどもそれを抑制したものは、伝わるものは少ないかもしれない。聞く側は、耳を澄まし、時間をかけ、そうして自分の中で育てていかなければならないのかもしれない。
それでも、切り詰めた言葉や音は、時間をかければ、わたしのなかに根を下ろし、なにかの像を描くはずだ。
わたしはその像が見たい。
ひとつひとつの音と言葉が結ぶ像。



(この項おわり)