陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

日付のある歌詞カード ―RUSH "Losing it"

2006-12-20 22:21:23 | 翻訳
自己言及的な人の自己言及ならざる音(前編)

 ~Rush "Losing it" ~

失いゆくもの

The dancer slows her frantic pace
In pain and desperation,
Her aching limbs and downcast face
Aglow with perspiration
バレリーナは死に物狂いの踊りのペースを落とす
苦痛と絶望と
痛む手足、うつむく顔は
汗で光る

Stiff as wire, her lungs on fire,
With just the briefest pause
The flooding through her memory,
The echoes of old applause.
節々が針金のようにこわばり、肺は火に炙られたようだ
ひと呼吸おけば
あふれるようによみがえる記憶のなかに
遠い日の喝采が谺する

She limps across the floor
And closes her bedroom door...
足を引きずりながら部屋を横切り
ベッドルームのドアを閉ざす……

The writer stare with glassy eyes
Defies the empty page
His beard is white, his face is lined
作家がうつろな眼で見つめるのは
拒むような白紙のページ
髭は白くなり、刻まれた皺は深い

And streaked with tears of rage.
憤りの涙の跡が残る

Thirty years ago, how the words would flow
With passion and precision,
But now his mind is dark and dulled
By sickness and indecision
三十年前であれば、言葉はとめどなく湧きだしたはずなのに
情熱と、精密さを併せ持つ言葉たちが
いま脳裏は何も見えない
病と逡巡に曇らされた闇

And he stares out the kitchen door
Where the sun will rise no more...
作家は台所の扉に眼を向ける
そこに日がまた昇ることはもうないだろう……

Some are born to move the world
To live their fantasies
But most of us just dream about
The things we'd like to be
Sadder still to watch it die
Than never to have known it
For you, the blind who once could see
The bell tolls for thee...
世界を駆けめぐるよう生まれついた人がいる
夢の世界を生きるために
ぼくらのほとんどはただ夢見るだけだけれど
願望を胸に抱くだけで
それが命を失っていくのを見ることは悲しい
知らないままでいたのより
あなたはむかしは見えていたものが見えなくなってしまったんですね
あなたのために鐘が鳴っている……

* * *

これは作家アーネスト・ヘミングウェイを歌った曲。
"lose it" で「参ってしまう」とか「意気消沈する」みたいな意味もあるのだけれど、文字通り「それ」を失いつつあること、もちろんヘミングウェイが『日はまた昇る』のエピグラフで使ったガートルード・スタインの言葉「あなた方はみな失われた世代(ロスト・ジェネレーション)だ」の"lost" もかけてある。ロスト・ジェネレーションの一員であるヘミングウェイが、自分自身が築いた「それ」を失いつつある、と歌っているのだ。

ここで歌詞に入る前に、少しヘミングウェイのことなど。
いわゆる「ロスト・ジェネレーション」と呼ばれる世代の作家や詩人や評論家たちがいるのだけれど、彼らは何を「失われた」のだろうか。

ここで文学史のおさらいをするつもりはないので、簡単にふれるだけにとどめるけれど、1920年代のアメリカに登場した多くの作家は、何らかの形で第一次世界大戦に関わった世代でもあるのだ。彼らはヨーロッパに渡り、戦争を経験し、彼ら以前の世代がアメリカ一国のうちで営々と築き上げてきた「アメリカ」や「アメリカ的なもの」に対する信仰を失ったのである。

古い道徳や愛国主義と決別して、残酷な現実(日本人にはピンとこないのだけれど、ヨーロッパを主戦場としておこなわれた第一次世界大戦は、欧米人にとっては第二次世界大戦よりもはるかに悲惨で残酷な経験として刻まれている)に直面し、それに応えうる文学、それをささえる文体を模索した。ヘミングウェイの文体も、そういうなかから生まれたのである。

ヘミングウェイの場合、追求していったのは、出来事を正確に記述する精緻な表現と、極力感情を排し、清潔で明るく光にあふれたスタイルである。ヘミングウェイは物や場所、細部しか描写しない。けれどもその背後には、さまざまな感情や痛みが隠されている。そうして、非感情的な描写全体が、主人公の内面感情のメタファーとなっている。

ここでわざわざヘミングウェイのスタイルを取り上げたのは、このニール・パートの詞が、そのスタイルを踏襲したものであるからだ。

一連目、二連目と、かつて自分のものだったなにものかを懸命に取りもどそうとするバレリーナが描かれる。そうしてそのまま「いま」のヘミングウェイ、自分のための弔鐘を鳴らそうとしている1961年のヘミングウェイのイメージへとつながっていく。
つまり、どれだけ必死に練習しても、もはや過去の踊りを取り戻せないでいるバレリーナとは、ヘミングウェイその人なのである。

ふつう、ヘミングウェイをこういうイメージでとらえたりはしない。
ヘミングウェイというと、行動する作家。アフリカでの狩猟やキューバでの釣り、あるいはスペインでの闘牛を愛した人。荒々しい、マッチョなイメージ。

この詞を書いたニール・パートは、そのヘミングウェイから、「バレリーナ」を取りだしてみせる。

ここで興味深いのは、「言葉はとめどなく湧きだした」のが二十年前ではなく、三十年前としている点だ。このなかにも詞のなかに組み込まれている『日はまた昇る』の発表が1926年、RUSH が"A Farewell to Kings" としてアルバムのタイトルを一部借りている『武器よさらば(原題は"A Farewell to Arms" 』が1929年。ニール・パートはこの時期をヘミングウェイのピークと見ているのである。

先にも書いたように、ヘミングウェイは独特な文体を編み出していった。形容詞やあるいは接続詞までもを排し、簡単な名詞と動詞を組み合わせることで、一見単純に見える文体は、場面をきわめて正確に再現する。読み手は登場人物の感情や思考を直接には知ることはできず、ヘミングウェイがどう考えているか、その痕跡さえ消して、ただ登場人物の行動と、その場だけが描かれる。そこで読み手は漫然と読んでいることはできない。中に入って、登場人物と一緒になってその場を見、行動をともにすることが求められる。

ところが30年代に入ったヘミングウェイの一見単純な、実は計算されつくした文体は、徐々にマンネリズムに陥っていく。その一方で、自分を主人公としたルポルタージュをいくつか描くようになる。そうしてジョン・ダンの「なんぴとも一島嶼にてはあらず、なんぴともみずからにして全きはなし」という詩に啓示を受けた『誰がために鐘は鳴る』(1940)は、それまでの作品にはなかった思想が出てくる。それまで外界に対して、無関心な態度しかとらずにいた主人公が、理想を持ち行動するようになる。初期の作品にくらべて、ずいぶんわかりやすくもなり、人道主義的な思想は大きな共感も集めたのだが、反面、厳格な散文のスタイルは失われていくのである。

そうしてヘミングウェイというと誰もが思い浮かべるイメージ、マッチョで英雄的な行動する作家像が作り上げられていくのが1940年代から50年代にかけて、そうしてノーベル文学賞を1954年『老人と海』で受賞する。ところが作家自身は、度重なる大事故による後遺症、飲酒などによって、彼自身がそのよりどころとしていた肉体的な力を失ってしまい、当初から背後にあった虚無にすっぽりと呑みこまれてしまい、1961年7月2日、父親と同じように猟銃で自殺する。

ニール・パートはこのヘミングウェイの作品と生涯を踏まえ、そのうえで「バレリーナ」という、意外なイメージ、けれどもよく考えてみれば、まったくふさわしいイメージを引き出しているのだ。

文学作品を曲に取り入れたものはいくつかある。たとえばツェップの"Moby Dick" ではメルヴィルの『白鯨』がタイトルになっているのだけれど、ボーナムのドラム・ソロが目玉のインストゥルメンタルの曲の、どこがどう『白鯨』なのかはわからない。エイハブ船長と鯨との戦いがイメージの底にあるのかもしれないけれど、ボンゾが『白鯨』というタイトルをとりあえず知っていた、という以上のことは定かではない(笑)。

たいていは、ちょこっとイメージを借りただけ、なかにはアイアン・メイデンのようにコールリッジの詩"The Rime of the Ancient Mariner" をごっそりといただいたものもあるけれど、これも何でコールリッジなのかよくわからない。ブルース・ディッキンソンが学校にいたころ暗唱させられたのか(日本の学校で「祇園精舎の鐘の声…」だの「春はあけぼの…」だの「行く川の水は絶えずして…」だのと暗唱させるように、このアホウドリの詩は暗唱の定番である)それとも好きだったのか知らないけれど、18世紀の詩がヘヴィ・メタルの曲に乗って歌われるのはおもしろいけれど、解釈がどうとかというものではない。ともかくライブでディッキンソンが「鳥が頭の上でフンをしたとき、何をやってはいけないか」と言って曲を紹介しているのは笑えるけれど(この詩はアホウドリにフンをひっかけられた老水夫が撃ち殺してしまったことから、その呪いで老水夫は遭難しかける)。

ところがここに描かれるヘミングウェイのイメージは、『老人と海』や『誰がために鐘は鳴る』といった有名どころをいくつか読んで気に入った読者のそれではない。おそらくニール・パートはヘミングウェイのすべての作品を読みこんで、自分なりの理解をしていたのだと思う(そうでなければ英文科を卒業するために卒論に選んだか)。

おそらく彼がヘミングウェイに引かれたのは、研ぎ澄まされたバレリーナのような文体、ぎりぎりまで切り詰め、贅肉のまったくない、強靱な文体だったのだろう。
そうしてこのことは、わたしにとってニール・パートの独特な〈音〉を理解していく手がかりでもあったのだ。

(つづく)