陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

検索の話

2006-12-04 22:30:19 | weblog
わたしが「検索」というか、サーチエンジンを初めて使ったのは2000年に入ってからだ。

翻訳というのは、おっそろしく些末な知識を必要とするので、それまではひとつの単語の意味を調べるために、図書館に行っておびただしい関連書物に目を走らせた。そうやって「マイランタ」が胃薬の製品名であることをつきとめ、「ディヴィッド・スペイド」という名前のコメディアンがいることを知り、moldingを辞書でひくと載っている「刳型」とか「廻り縁」という日本語が、天井と壁の接合部を意味する、ということを覚えたりしたのだった。そんな日本語さえ知らない単語が、ありがたいことに、図書館のレファレンス・ルームにある建築用語辞典などの専門用語辞典には、英単語と一緒に図解入りでどんなものか載っていた。もちろん『絵でひく英和大図鑑 Word's Word』は発売と同時に買って、洋服の部位や帆船の各部分、拳銃の構造など、大変世話になった。

ところがサーチエンジンを使えば、単語を入力するだけでたちまち多くのサイトがヒットする。"T.J. O'Pootertoot"のように、それだけではわからない単語も、中身を読んでいくうちに、それが何であるか見当がついてくる。世の中はこんなにも便利になったのか、と、感涙にむせびたくなるほどだった。まぁ泣くことはなかったけれど。

そのころはまだブリタニカ(英語版)も無料で、これもずいぶんお世話になった。
そうやって、見つけたサイトがおもしろくて、「巡回」するサイトもできていった。
ともかく、サーチエンジンのおかげで、調べものが単に楽になっただけでなく、ウェブの世界で迷子にならずにもすんだのだ。

それからさらにしばらくして、いろんな意味でゆとりができたころ、自分もウェブ世界の一員として、ささやかながら情報を発信し始めた、ということになる。

ところがわたしの場合、翻訳を除けば、自分が書くもののほとんどは、本から得たものだ。
このあいだ「報道の読み方」で何人かの方のブログをソースとして引用させていただいたのがほとんど初めてのようなもので、それ以外はほとんど本からの引用が元になっている。
というか、わたしが文章を書くのも、読んだことをもっと深く理解したい、自分のものにしたいから、ということが大きい。

だれだって自分がわかることしかわからない。
どんなに重要なことが書いてある本を読んだとしても、自分が理解できる範囲を超えてわかることはできない。

昔の旧制高校の学生というのは、一種の「修行」として、むりやりむずかしい本を読んでいた、という話を聞く。それで精神を鍛えていたのだ、というのだけれど、わたしはそういう読み方をしたことがないので(すいません、軟弱者です)、それがどのくらい「精神」の鍛錬になったのかはよくわからない。

わたしは鍛錬のために本を読みたいわけではなくて、知らないことを知りたいから、読むわけだ。もう少し正確に言うと、読まない状態でいれば、自分が何を知っていて、何を知らないかもわからない。
自分のよく知っていることしか書いてない本は、つまらない。
そうではなくて、自分がここまではわかるけれど、ここからはわからない、ということを教えてくれる本を読むと、ほんとうにうれしくなってしまう。そうして、その著者の手引きに従って、少しずつ分け入って、それでもわからない、その自分のわからなさを言葉で埋めていく、そういう作業がしていきたい、と思っている。

だから、書いているときというのは、いつも「わかった」ところと「わからない」ところの中間地点で宙ぶらりんでいるから、たいてい、書いたときに自分でも何を書いているのかよくわかってはいないのだ。そうして、書き終わって、つぎのところへ行ったとき、振り返ってみて、やっと、自分が何が書きたかったかがおぼろげにわかってくる。そんな書き方をしている。
果たしてそんなものを人に見せていいもんだろうか、とも思うのだけれど、やはり、チラシの裏ではなく、人からの評価を受けるものとして書くことに、わたしの内では意味があるのだろうとも思っているわけだ。

インターネットでは「情報」を手に入れることはできるけれど、やはり「情報」は「情報」で、自分のわからないことがわかったり、どこまでわかっているかがわかったり、というものではない。そこまで体系的なものはないし、この先にどんなものがあるかを教えてくれるところがあるだけだ。「つぎにどんな本を読んだらいいか」「どういう方向の本を探したらいいか」という道しるべはとてもありがたいけれど。

だから、検索でわたしの書いたものにたどりついて、もし興味を持つことがあったら、わたしが書いたものは「情報」なので、そこからぜひ引用した本の方を読んでほしい。
おそらく学生の方だと思うのだけれど、何度か、本の何ページにあるか、という問い合わせを受けたことがあって、もちろんメールで聞かれれば答えるけれど、それをどうするのかなぁ、と思ってしまう。そんなふうに「情報」だけ手に入れて、それで終わりにしてしまうのは、あまりにもったいないのだ。

「検索」で手にはいるのは、情報だけだ。
いかに「情報通」になったとしても、そんなものはその人と何の関係も持っていかない。情報は、行き過ぎるだけだ。
そうではなく、その人の内に蓄積され、そうしてほかの蓄積したものと結びつくことができるのは、やはり本を読み、それも一冊や二冊ではなくある程度系統的に読むことによってしか可能にはならないと思う。
「わかること」と「わからないこと」のあいだに橋をかけていくような、そんな読み方をしようと思えば、やはり本に依拠していくしかないのではないか、と思うのだ。

古くさい考え方かもしれないけれど、わたしはそういうことに関しては、古くさくて上等だと思っている。


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ええ、明日にはマッカラーズ、アップします。
冒頭の文章が決まらなくて。
一体何度書き直したことか。
もうちょっとです。明日にはぜひ。