過客 その5.
人の気配があった。女中がロウソク白い砂糖衣のかかったケーキを運んできた。ピンクのロウソクが立っている。子供たちもパジャマ姿のままで入ってきた。フェリスにはまだその意味がわからないでいた。
「お誕生日おめでとう、ジョン」エリザベスが言った。「ロウソクを消して」
自分の誕生日だったことを思い出した。火は吹いてもなかなか消えやらず、ロウの燃えるにおいがただよう。フェリスは38歳になったのだ。こめかみの静脈が濃くなり、ぴくりと脈打った。
「もう劇場に行く時間になったんじゃないかな」
フェリスはエリザベスに誕生日の夕食を用意してくれた礼を言い、その場にふさわしい別れの言葉を続けた。家族全員が玄関まで出てきて見送ってくれた。
天空高くにあるか細い月が、ノコギリの歯のようにそびえ立つ暗い摩天楼を照らしている。通りは風が強く寒かった。フェリスは三番街まで急ぎ、タクシーを停めた。ここを発つ者、そうして、おそらくは別れを告げる者の意識的なひたむきさで、夜の街に目をこらした。彼は、ひとりだった。早く出発の時間になればいい、早く飛行機が動き出せばいい、と思った。
翌日、上空から見おろした街は、陽の光にきらきらと輝き、おもちゃのように整然とならんでいた。アメリカをあとに残し、大西洋と、はるかかなたのヨーロッパの海岸線があるばかりだ。雲の下の海は、青みがかった乳白色で穏やかだった。日が高いあいだ、フェリスはほとんどうつらうつらしていた。暮れ方になってくると、エリザベスのことや昨夜、家を訪ねたことを考える。家族に囲まれていたエリザベスを、あこがれと、ひかえめな羨望と、自分でも定かではない後悔の念をないまぜにしながら考えていた。あのメロディを追いかける。最後までいかなかった、心揺さぶられたあの響き。リズム、バラバラな音が記憶にあるだけで、メロディさえすり抜けてしまっていた。かわりにエリザベスの弾くフーガの第一声が浮かんでくる――からかうように転調して短調になって。海の上空高く浮かんでいれば、無常の思いも、孤独の不安も、もはや心を煩わせるものではなく、父の死も平静な気持ちでかみしめることができた。夕食の時間には、飛行機はフランスの海岸を過ぎていた。
深夜、フェリスはタクシーでパリを横断した。曇った晩で、コンコルド広場の街頭は霧が輪を作っていた。濡れた歩道を終夜営業のビストロの光が照らす。大西洋を横断するときはいつもそうだったが、ふたつの大陸のちがいはあまりに急激だった。朝はニューヨーク、同じ日の深夜にはパリ。自分の人生の無秩序ぶりをかいま見るようだ。移り過ぎてゆく都市、つかのまの恋。そうして時間というやつだ。音階が隙間なく滑るように流れていくグリッサンド、禍々しいグリッサンドのような歳月、つきまとって離れない時間。
"Vite! Vite! (早く、早く)"フェリスは怯えていた。"Depechez-vous(急いでくれ)."
ヴァランタンがドアを開けてくれた。男の子はパジャマの上に、小さくなった赤いローブを羽織っている。翳りを帯びた灰色の目が、フェリスがなかに入っていくのを見て一瞬きらりと光った。
"J'attends Maman(ぼく、ママを待ってるんだ)."
ジャニーンはナイトクラブで歌っていた。もう一時間は家には帰ってこない。ヴァランタンは絵のつづきを描こうと、クレヨンを手に、床に置いた紙の上にかがみこんだ。フェリスはその絵を上からのぞいた――マンガ風なタッチの気球に乗ったバンジョー弾きが音符と波線と一緒に描かれている。
「またチュイルリーに行こうな」
顔を上げた子供をフェリスは自分の膝元へ引き寄せた。メロディが、エリザベスが弾いて最後までいかなかった旋律が、突然、耳元によみがえる。追い求めていないときに、記憶の重荷のなかから解き放たれたのだ。いまは、これだ、という思い、唐突な喜びだけが胸を満たした。
「ムッシュー・ジャン」子供が言った。「彼には会えた?」
一瞬わけがわからなくなって、フェリスはもうひとりの子供のことを考えた――そばかすの、家族に愛されているあの男の子のことを。「え、だれだって、ヴァランタン」
「ジョージアのあなたの亡くなったパパです」男の子は言い足した。「お元気になったんですか」
フェリスは一刻の猶予もならないように焦りながら話し出した。「チュイルリーにはちょくちょく行くことにしよう。ポニーに乗ったり、グランギニョルに人形劇も見に行こうな。今度はちゃんと人形劇を見て、もう絶対、急いだりはしないんだ」
「ムッシュー・ジャン、グランギニョルはいま閉館してるんです」
ふたたび、恐怖、自分が知ってしまった無駄に流れた歳月と死のことがよみがえる。ヴァランタンという感覚の鋭い、安心しきった子供は、フェリスの腕に身を預けたままでいた。頬が柔らかい頬にふれ、ふんわりとしたまつげがかすめる。内側が焼けつきそうな気持ちに襲われ、フェリスは子供をきつく抱きしめた――まるで、さまざまに移ろいゆく思い、たとえば自分の愛のようなものが、時の鼓動などどうにでもできるとでもいうように。
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(※後日加筆修正してサイトにアップしますのでよろしく)
人の気配があった。女中がロウソク白い砂糖衣のかかったケーキを運んできた。ピンクのロウソクが立っている。子供たちもパジャマ姿のままで入ってきた。フェリスにはまだその意味がわからないでいた。
「お誕生日おめでとう、ジョン」エリザベスが言った。「ロウソクを消して」
自分の誕生日だったことを思い出した。火は吹いてもなかなか消えやらず、ロウの燃えるにおいがただよう。フェリスは38歳になったのだ。こめかみの静脈が濃くなり、ぴくりと脈打った。
「もう劇場に行く時間になったんじゃないかな」
フェリスはエリザベスに誕生日の夕食を用意してくれた礼を言い、その場にふさわしい別れの言葉を続けた。家族全員が玄関まで出てきて見送ってくれた。
天空高くにあるか細い月が、ノコギリの歯のようにそびえ立つ暗い摩天楼を照らしている。通りは風が強く寒かった。フェリスは三番街まで急ぎ、タクシーを停めた。ここを発つ者、そうして、おそらくは別れを告げる者の意識的なひたむきさで、夜の街に目をこらした。彼は、ひとりだった。早く出発の時間になればいい、早く飛行機が動き出せばいい、と思った。
翌日、上空から見おろした街は、陽の光にきらきらと輝き、おもちゃのように整然とならんでいた。アメリカをあとに残し、大西洋と、はるかかなたのヨーロッパの海岸線があるばかりだ。雲の下の海は、青みがかった乳白色で穏やかだった。日が高いあいだ、フェリスはほとんどうつらうつらしていた。暮れ方になってくると、エリザベスのことや昨夜、家を訪ねたことを考える。家族に囲まれていたエリザベスを、あこがれと、ひかえめな羨望と、自分でも定かではない後悔の念をないまぜにしながら考えていた。あのメロディを追いかける。最後までいかなかった、心揺さぶられたあの響き。リズム、バラバラな音が記憶にあるだけで、メロディさえすり抜けてしまっていた。かわりにエリザベスの弾くフーガの第一声が浮かんでくる――からかうように転調して短調になって。海の上空高く浮かんでいれば、無常の思いも、孤独の不安も、もはや心を煩わせるものではなく、父の死も平静な気持ちでかみしめることができた。夕食の時間には、飛行機はフランスの海岸を過ぎていた。
深夜、フェリスはタクシーでパリを横断した。曇った晩で、コンコルド広場の街頭は霧が輪を作っていた。濡れた歩道を終夜営業のビストロの光が照らす。大西洋を横断するときはいつもそうだったが、ふたつの大陸のちがいはあまりに急激だった。朝はニューヨーク、同じ日の深夜にはパリ。自分の人生の無秩序ぶりをかいま見るようだ。移り過ぎてゆく都市、つかのまの恋。そうして時間というやつだ。音階が隙間なく滑るように流れていくグリッサンド、禍々しいグリッサンドのような歳月、つきまとって離れない時間。
"Vite! Vite! (早く、早く)"フェリスは怯えていた。"Depechez-vous(急いでくれ)."
ヴァランタンがドアを開けてくれた。男の子はパジャマの上に、小さくなった赤いローブを羽織っている。翳りを帯びた灰色の目が、フェリスがなかに入っていくのを見て一瞬きらりと光った。
"J'attends Maman(ぼく、ママを待ってるんだ)."
ジャニーンはナイトクラブで歌っていた。もう一時間は家には帰ってこない。ヴァランタンは絵のつづきを描こうと、クレヨンを手に、床に置いた紙の上にかがみこんだ。フェリスはその絵を上からのぞいた――マンガ風なタッチの気球に乗ったバンジョー弾きが音符と波線と一緒に描かれている。
「またチュイルリーに行こうな」
顔を上げた子供をフェリスは自分の膝元へ引き寄せた。メロディが、エリザベスが弾いて最後までいかなかった旋律が、突然、耳元によみがえる。追い求めていないときに、記憶の重荷のなかから解き放たれたのだ。いまは、これだ、という思い、唐突な喜びだけが胸を満たした。
「ムッシュー・ジャン」子供が言った。「彼には会えた?」
一瞬わけがわからなくなって、フェリスはもうひとりの子供のことを考えた――そばかすの、家族に愛されているあの男の子のことを。「え、だれだって、ヴァランタン」
「ジョージアのあなたの亡くなったパパです」男の子は言い足した。「お元気になったんですか」
フェリスは一刻の猶予もならないように焦りながら話し出した。「チュイルリーにはちょくちょく行くことにしよう。ポニーに乗ったり、グランギニョルに人形劇も見に行こうな。今度はちゃんと人形劇を見て、もう絶対、急いだりはしないんだ」
「ムッシュー・ジャン、グランギニョルはいま閉館してるんです」
ふたたび、恐怖、自分が知ってしまった無駄に流れた歳月と死のことがよみがえる。ヴァランタンという感覚の鋭い、安心しきった子供は、フェリスの腕に身を預けたままでいた。頬が柔らかい頬にふれ、ふんわりとしたまつげがかすめる。内側が焼けつきそうな気持ちに襲われ、フェリスは子供をきつく抱きしめた――まるで、さまざまに移ろいゆく思い、たとえば自分の愛のようなものが、時の鼓動などどうにでもできるとでもいうように。
The End
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(※後日加筆修正してサイトにアップしますのでよろしく)