陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

悪いものは悪い、じゃなくて

2006-12-03 22:16:33 | weblog
まえにも書いたことがあるのだけれど、山口文憲(なんと肩書きをつけたらいいのだろう?)は『読ませる技術──書きたいことを書く前に』(ちくま文庫)のなかで、電車の中でのマナーについては、どうやってもうまく書けないから書いてはいけない、と書いていた。

たぶんその理由は書いてなかったと思うのだけれど、おそらく「マナーが悪い人が悪い」という結論にしかなっていかないからなのだと思う。
その途中を、ほかの現象と結びつけたり、以前と比較してみたりしても、どこまでいっても「マナーが悪い人の物語」のヴァリエーションは拡がりようがないのだ。

これは「電車のマナー」だけの話ではない。
「歩道を歩く」に置き換えても可能だし、別にマナーに限らず「日本語の乱れ」だっていいのだけれど、ひとたび「良いか悪いか」の枠組みでものごとをとらえようとすると、物語はおそろしく単調なものになってしまう。

電車の中で携帯電話を使うのは悪い。
いじめは悪い。
児童虐待は悪い。
ゴミの不法投棄も、動物虐待も、環境破壊も、日本語の乱れも悪い。

まあ、もちろんその通りだ。

だれが書いたって「悪いものは悪い」、それ以外に書きようがない。
けれど、そんなものを一体誰が読みたいだろう。

他人が読みたかろうが読みたくなかろうが、悪いものは悪い、と声をあげていくことに意味がある、という意見があることは理解できる。
そうすることが必要な場合もあるのかもしれない。
だからわたしはそうする人を否定はしないけれど、あまりそういうものが読みたいとは思わない。

わたしたちが何かを読むときは、情報や知識を得たい、あるいは楽しみたい、という目的がある。つまり、それが読む価値があると思わせてくれる「何ものか」を求めているのだ。ところが誰が書いても同じ、新しい発見もない、となると、なんでわざわざそんなものを読まなくてはならないのだろう。

「××が悪い」ということが、その人とどんなふうに関わっているのだろう。
「××が悪い」という人は、その出来事をどこに立ってみているのだろう。
そういう書き方があるはずだ。
ところが多くの「××が悪い」という文章には、肝心のその点が書いてない。

「勧善懲悪」というタイプの物語がある。
水戸黄門でもウルトラマンでもいいんだけれど(ずいぶんちがうけれど)、そういう物語では、ほとんど例外なく、共同体の外部にいる超人的な力(あるいは権力)を持つ人物が、悪い人間を懲らしめ、去っていく。
そこでは「悪い」ものはつねに百パーセント完全に悪く、その悪さえ取り除かれれば共同体に平和は訪れる。
そうして、それを見ているわたしたちは、その物語のだれとも関係のないところから、すべてを見通す視点から、その物語を眺めている。そうして、水戸黄門だとか、ウルトラマンだとかの側に立って、ぼけーと(あるいは一生懸命声援している人もいるのかもしれないけれど)見ているわけだ。
「善-悪」の枠組みが決まった外側から眺めていることができるから、ただ何にも感じないで、爽快感だけ感じていればいい。

けれど、現実には、わたしたちは多くの場合、「水戸黄門を支持しながら見ている観客の位置」には立つことができないんじゃないんだろうか。
捨て猫に胸を痛める一方で、ゴキブリをスリッパで叩き殺し、スーパーで肉やハムを買っている。
環境破壊は悪いといいながら、エアコンを使い、車に乗る。
そういうことに気がついてしまうと、ちょっと後ろめたいし、あんまり大きい声で「あれが悪い」なんていうことは言えなくなってしまう。

ところが、ごく例外的に「水戸黄門を支持しながら見ている観客の位置」に立つことができるケースがあると、つい、「悪いやつ」を声をあげて指弾してしまうのだ。
たとえば電車の中のマナーが悪い誰かを見つけたときとか。
学校を卒業してしまい、教職にも就いていない人、子供もおらず、関係者もいない人の「いじめ問題」とか。

それでも、そういう声はどれだけ大きくても、「水戸黄門を支持しながら見ている観客の位置」にしか立っていないから、解決にはつながっていかない。
解決ができるのは、当事者だけだ。
ほんとうに解決しようと思ったら、何らかの形で当事者になっていく方向を模索していかなければならないし、そうなると、物語の外側に立って「良い、悪い」などと単純に言うことなど、できなくなってしまう。
いろんな責任を引き受けながら、人からの批判にさらされながら、それでもどうしたらよりマシな方向に持っていけるか、考えるしかない。
自分はこの問題とどう関わっているのか。
これを考えるところからしか、話は始まっていかないのではないのだろうか。

ウルトラマンの内部から見れば、ウルトラマンだって実存的な悩みを感じているのかもしれない。
なんで自分は自分がたった3分しかいられない場所で、こんなにも苦労しなければならないのだろうか、と、運命を呪っているかもしれない。
自分が倒した怪獣の怨念を背負って生きているのかもしれないし、うなされることだってあるだろう。
ウルトラマンは、おそらく「怪獣が悪い」とは思っていないような気がする。