陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

貧しても鈍しない

2010-08-18 07:55:44 | weblog
楽しみに見ていた『ゲゲゲの女房』だが、貧乏な時期が終わって、おもしろくないわけではないのだが、一山越えて、なだらかな道をてくてく歩いているような感じだ。

そういえば、幸田文も、何かのエッセイで、貧乏な時期を抜けて、最近では精神が弛緩している、といったことを書いていた。貧乏はもうふるふる嫌だが、あの気持ちがしゃきっとした感じをなくしてはいけない、という主旨の話だったように思う(例によって曖昧な記憶による不正確な記述であるが「ふるふる嫌」という言葉があったことだけははっきり覚えている)。

『ゲゲゲ…』よりほかにも、映画やテレビで昭和三十年代を舞台にしたものは、よく、あのころは貧乏だったけれど、いい時代だった、というコピーがついている。だが、そうした「回顧」というフィルターをかけない貧乏、現在進行形の貧乏(こういうときには「貧困」という書き方がしてあるが)は、新聞・ニュースでは、対処が必要な問題であり、解決策を出せない首相・官僚は無能である……と毎日報道している。貧乏というのは、そのさなかにいるときは「ふるふる嫌」でも、通り過ぎてしまうとノスタルジーに浸れるものなら、何とかいまを乗り越えれば、「そんな時代もあったねといつか話せる日が来るわ…だから今日はくよくよしないで、今日の風に 吹かれましょう」(by 中島みゆき)と言っていればいいような気がするのだが、こんなに「貧困の撲滅」が声高に書かれてあるのは、いったいどうしたことなのだろう、とちょっと変な気がしてしまう。

「貧すれば鈍す」という言葉がある。貧乏すると、頭が鈍くなる、生活の苦しさで頭が一杯になって、ものごとを考えられなくなってしまう、といったところだろうか。

わたしも学生時代、ひどい貧乏だった時期は、バイトへ行くのにバス代もなくて、5㎞ほどの道のりを歩いていったこともあるし、バイトに行って、昼休憩になってもお昼を食べる金もなく、隅で本を読んでいたら、お姉さんのような年上のバイトの人からお弁当に持ってきたゆで卵を分けてもらったこともある。

どうしようもなくなって、百円玉でも落ちていないかと下を見ながら歩いているとき、不意に「貧すれば鈍す」という言葉を思い出し、ああ、あれはこういうことだったか、と思いあたった。確かにいまのわたしは目先のお金のことしか考えていない。これはえらく鈍してるぞ、と思うと、なんだかおかしくなってきて、笑えてきた。笑いながら、同時にもっとそれ以外のことも考えなきゃ、ちょっとやばいぞ、と思ったものだ。

「貧すれば鈍」しがちなのが人間の常であるのに、水木しげるもその妻も、幸田文も、あるいは昭和三十年代を舞台にした映画の登場人物たちも、「貧すれば鈍」しなかったから、偉かった、ということなのだろうか。

だが、「貧すれば鈍する」とは逆に、貧乏の時は頭を使わなければ、日々を生きることもむずかしい。その頭の使い方は必死であるからこそ、幸田文が言う、緊張感の中に生きている、ということになるのだろう。
電気も止められて、ロウソクの灯りの中で、ふたり肩寄せ合ってマンガを描いている水木夫妻は、「未来」を思い描きながら、「いま」を精一杯生きていた。そんな生き方が見ている人の感動を呼ばないはずはない。

問題は「貧すれば鈍」して、結局「いま」の状態に頭が占領されてしまい、思考不能になってしまうことだろう。貧困はいけない、貧困をどうにかしろ、と連呼している人の姿こそ、何より「貧すれば鈍」してはいないか。

だが、未来を思い描こうと思っても、人が思い描く未来には、何らかの「モデル」が必要である。『ゲゲゲ…』や昭和三十年代の映画を観る人は、当時の人たちが、貧困の中にあって、いったい何を夢見ていたか、「貧しても鈍」しないで、何に希望を託して、今日を生き抜いたか、それが知りたいからにちがいない。そうして当時の、いまのわたしたちが「忘れていた生活の豊かさ」を思い出したいからにちがいない。

だとしたら、かつては貧乏なのが当たり前だった、ということも一緒に思い出したらどうか。貧乏を怖れずに、それを当然として受けとめたらどうだろう。

もちろん、映画やドラマは当時を美化している、という見方は当然ある。日本がくぐり抜けたあんなものではない貧困というのは、たとえば『日本残酷物語』を読んだだけでもはっきり知ることができる。

それでも、人は生き抜いてきた。いまの状況を少しでもどうにかしようと「貧しても鈍」しないで考えてきたからだ。だからいまのわたしたちがここにいる。

忘れてはならないのは、時間がかかるということだ。
振り返る過去の出来事は、一瞬に思えるけれど、未来のことは当然ながら、行き先も、いつまでそれが続くかもわからない。暗闇で手探りする日々は続く。
けれども『ゲゲゲの女房』はそれがいつか終わることを教えてくれる。そうして、その手探りの時期は、もう一度繰りかえすのは「ふるふる嫌」であっても、決して悪い時期ではないのだ、ということも。


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