陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

楽しくないことが楽しい

2013-01-31 23:52:40 | weblog
「楽しくないことが楽しい」について、もう少し。

人が楽しさを感じるのは、さまざまな状況があるだろうが、そのひとつに「何かを思い通りにできる」ということがあるだろう。

それがゲームであっても、ダンスであっても、野球やサッカー、ピアノを弾くことであっても、ネコやキンギョを飼うことであっても、ベランダでハーブを育てることであっても同じなのだけれど、それらはすべて、わたしたちがその対象に働きかけ、対象を自分の願うように変化させようとする行為だ。

ゲームを先に進めたい。サッカーで強いシュートを打てるようになりたい。ショパンのエチュードを弾きたい。ネコと一緒に遊びたい。エサをやったり、練習を重ねたりして、わたしたちはその対象に働きかける。

このとき、「その対象」は鏡となって、わたしたち自身を規定する。「ゲームのコントローラーを握る自分」「サッカーのボールを蹴る自分」「ピアノの鍵盤に向かう自分」「ネコを育てる自分」…という具合に。ちょうど鏡に映った自分の姿を見るように、相手によって規定された「自分」を知ることになるのだ。

多くの場合、対象はなかなかこちらの思い通りにはならない。練習してもなかなか指は動いてくれないし、ネコはいうことを聞かないし、ハーブには虫がついてしまう。ゲームだって複雑な操作が要求されるから楽しいのであって、ボタンを押すだけで先へ進めるとしたら、それは単なる作業になってしまうだろう。

そうやって失敗を重ねながら働きかけを繰り返し、相手からの反応にこちらも反応していくことで、わたしたち自身が変わっていく。わたしたちは自分をそうやって少しずつ変化させながら、「思い通り」に近づいていくのだ。

「楽しくないこと」というのは、働きかけること自体に興味がない場合は別として、最初は興味を持って始めても、働きかけても働きかけても相手が一向に変わってくれない、ということだ。

相手に変化が見られないと、相手によって規定される「自分」も動いてはいかない。だから何か同じことの繰り返しに飽きてしまう。

それでも、働きかけを続けたとする。相手に変化は見られない。けれども、実は自分の側は決して同じではないのだ。まず何よりも「変化がない」という相手からの反応を受けて、「変化のない相手に働きかけを重ねる自分」に変わっている。そこからさらに働きかけを続けることで相手に対する知識は増えていくし、働きかけの熟練度もあがっていく。さらには「別の方法を試そうとする自分」や「かすかな変化に気がつく自分」に変わっていく。

つまり、見かけ上はどれだけ「変化」がなかったとしても、働きかけを続ける限り、自分が変わらないということはありえない。自分が変わらなかったとしたら、それはほんとうの意味で働きかけているのではなく、ただ惰性で繰り返しているだけだろう。

「楽しくないことが楽しい」というのは、この「容易には言うことを聞いてくれない相手に働きかけ続けることの楽しさ」にほかならない。「できる」ということは、「できる自分に自分が変わっていく」ということだ。「何かをする」ということは、働きかける対象を鏡にして、結局は自分を見つめるのにほかならない。

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