陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

本物と偽物

2012-11-27 23:42:30 | weblog
古い"The New Yorker" をたくさんもらったので、適当にパラパラと読んでいたら、アリス・マンローの 短編"Dimension"というのが、すごくおもしろかった――というか、おもしろいという言葉ではまったく足りないのだけれど。

(※いま調べてみたら、「次元」というタイトルで邦訳あり。短編集『小説のように』に所収されている。ただ、タイトルの「次元」という訳は適切なのかなあ、という気はする。このディメンションは、もちろんあえて抽象度の高い言葉をあてているのはわかるのだけれども、「次元」というと、二次元、三次元……と、垂直方向に上がっていく含意があるでしょう? 少なくともこれは垂直方向の話ではないと思う。"dimension"をOEDで引くと、"sun-dried tomatoes add new dimension to this sauce." という例文が載っているのだが、まさにこれなのだ。「ドライ・トマトはこのソースにいままでになかった風味を加えます」と言ってしまうと料理の話になるのだが、こんなふうに、あることをきっかけにものごとががらりと様相を転じてしまう、その変わってしまった「様相」の話なのである。となると、日本語は「様相」とか「局面」とかになるのかなあ……)

はてさて、これはなかなか深い話なので、日を改めて、またそのうち。今日はこれを読んでいて思い出したことをひとつ。

話の中に奇妙な人物が出てくるのだ。
病院の雑役夫なのだが、医療の知識が豊富で、患者の扱いもうまい。本人も自分の能力にはずいぶん自信があったようで、日ごろから医者などバカにしてはばからなかった。そんな彼はのちに大きな問題を引き起こすのだが、それはいまの話とは関係ない。

読んでいて、そうそう、こんな人に会ったっけ、と思い出したのである。病院というところには、この手の人がときどきいるものなのだろうか。それとも職業に関係なく、こうしたたぐいの人は、一定の割合でいるのか。ともかく、わたしが会ったのも医療関係者だった。しかも、ふたり。

ひとりは、歯科医院だった。若い女性で、受付にいた。
行くたびに、調子はどうか、とか、抜歯のあとはすぐに血が止まったか、とか、声を掛けてくれる。それだけでなく、痛み止めや抗生物質の種類も詳しく説明してくれるし、つぎの診療まで日が空くようなときは、そのあいだにどういうことに気をつけた方がいい、とアドバイスしてくれて、最初のうちはなんと優しい人だろう、と思っていた。歯医者さんではないから、きっと歯科衛生士さんなのだろうけれど、いろんなことをよく知っていて、勉強もよくしている人なんだろう、と。

ところがそこに行く回数が増えるにつれ、なんとなくその人の気遣いがわずらわしくなってきた。その人がいない日ならさっさと終わる受付も、今日やった処置の説明だけでなく、酸性食品だのアルカリ性食品だの、栄養のバランスが歯のためにも大切だのといった話がついてきて、時間ばかりかかって、なんだかうるさく感じるようになったのである。

まあ、そうは言ってもこんなひねくれたことを考えるのはわたしだけだろう、とばくぜんと思ってはいたのだ。そうでなくてもうっとうしい歯医者なのだから、そんなやさしい人が必要なのだろう、ぐらいに。

ところがある日のこと(ちょうどその人が休みの日だった)、待合室にいたわたしのところへ、たまたま受付の奥の部屋にいた、ほかの歯科衛生士さんたちの会話が聞こえてきたのだ。

「あの人、そんなにいろんなこと知ってるんなら、国試受けて、衛生士になればいいのに」
「衛生士なんて、ってバカにしてるからね。そんなバカにしてるもののためにわざわざ勉強なんてしないよ。ほんとは歯医者になりたかったんでしょ」
「じゃ、歯科大に行けば良かったのに」
「歯科大はねえ。誰でも行けるってわけじゃないから。うふふふ」
うふふふ、と、ひそやかな、いかにも楽しそうな笑い声を聞きながら、ああ、そういうことだったのか、あの人は歯医者さんになりたかったから、その望みが満たされなくて、そんなことをしていたのか、なんだか聞いちゃいけないことを聞いてしまったなあ……、と思ったものだった。

まあ、そういった「陰口」が果たしてどこまで当を得ているものなのか、はたして「あの人、感じ悪いよね」レベルの悪口とどれほどちがうものなのかはよくわからなかったけれど、いくら仕事ができたとしても、彼女と一緒に働くのは、確かに厄介かもしれなかった。

それから数年後、今度は別の病院に入院していたとき、そこのレントゲン技師さんと口をきくようになった。英語やドイツ語の略語を交えながら、あれやこれや病気やケガについて説明してくれて、なかなか興味深かったけれども、医者に対する悪口はかなりひどかった。「○○先生は××大だけど、使えない」「△大は世間では有名だけど、そこ出にはロクな医者がいない」などなど。「こんなことは医者は知らないんだけどさ」という前置きで始まる話を聞きながら、以前会った歯科助手の人と一緒で、この人もほんとはお医者さんになりたかったのかなあ、と思ったものだった。

医療現場というのは、職域がはっきりと定まっているから、知識欲や向上心のある人というのは、欲求不満の状態におかれてしまうことがあるのかもしれない。以前、アメリカのドラマ「e.r.(緊急救命室)」のエピソードのなかで、婦長のキャロルが看護師としての限界を感じてコミュニティ・カレッジに再入学し、医大を受験する、というストーリーがあったが、そうした感情を持つのは決してめずらしいことではないのだろう。

けれども、ドラマならいざしらず、自分の携わっている業務に物足りなさを覚えたとしても、実際に医学部をめざす人は、そう多くはないのではないか。なにしろ医学部入学は簡単なことではないし、高校の勉強から離れた人なら、独学はとうてい無理で、予備校に通うことは前提となるはずだ。そうやって三角関数をやりなおし、微分方程式を解き、英単語を覚え、化学記号を覚え、歴史の年号を覚え、斜面を滑り落ちる物体の加速度を計算し、という、いったい何の役に立つかわからない、それこそ受験を終えてしまえば必要もなくなるような勉強を延々とやっていかなければならないのだ。

多くの人は、自分の仕事に限界を感じたとしても、その中でできるだけのことをやっていこうとしているのだろう。けれども、なかにはその限界を耐えがたく思う人もいるのかもしれない。

アリス・マンローの短編に出てくるロイドは、「病院の雑役夫」という仕事にはがまんできなかった。もっと医療に関わる仕事ができるように、資格をとるという方法もとらなかった。そんな迂遠なことをする代わりに、てっとりばやく「お医者さんみたい」になったのだ。ちょうど、子供がごっこ遊びで「お母さん」や「先生」になるように。わたしが会った人たちも、「お医者さんみたい」に振る舞うことで、自分の満たされない思いを、なんとか満たそうとしていたのではなかったか。

ちょっと前、医師免許もなしに医療行為をしたとして、摘発された人がいた。その人は、おもに健康診断をやっていたようだが、おそらくその人もお医者さんになりたかったのだろう。そうして、医者になることはもちろんかなわなかったし、なんらかの事情で医療職に就くこともしなかったか、できなかったのだろう。だから、医者になりたい、という夢を、医者を助けることによって満足させることもできないとなると、「偽医者」になるしかない、と考えたのだろう。

その人も、わたしが会った人たちと同じように、受診者に対しては、過剰なくらい、親切丁寧な対応をしていたような気がする。けれども、その人たちが親切だったのは、それが「ごっこ遊び」だからなのではあるまいか。「ごっこ遊び」だからそれをやっていて楽しい、だから過剰なまでに説明をしてくれたのだし、こちらをかまってもくれた。ちょうど、ままごと遊びをやっている子供が、「赤ちゃんのお世話もしなきゃいけないし、お買い物にも行かなきゃならないし、ああ、忙しい、忙しい」と言いながら、楽しくてたまらないように。だが仕事となると、どれほど望んで就いた職業であっても、もはや「楽しみ」という尺度で測れるものとは関係がなくなってしまう。

何でもそうだけれど、何か特別の資格や技術や能力を身につけようとすれば、迂遠でまだるっこしい、一見すれば何のために必要なのかもよくわからないような努力が必要なのだろう。結局、ロイドみたいな人に欠けている資質というのは、たとえば「頭の良さ」とか、「知識」とかではなく、それに必要な時間をひたすらやり続ける能力なのかもしれない。

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