陰陽師的日常

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英語の勉強

2013-05-02 23:56:49 | weblog
2011年から小学校に英語の授業が導入されて、この春で二年目になる。「コミュニケーション能力の素地を養う」とかいう授業がどのようなものなのか、実のところは知らないのだが、外国人教師が週に一時間か二時間、"Hello, everyone! How are you?" と言う例のやつではあるまいか、と思っている。そんな挨拶だけ、どれだけ勉強したとしても、何の役に立つわけでもないことは、誰もが十分わかっているだろうに。問題は、挨拶をしたそのあとなのである。

以前から、日本の英語教育の弊害を口にする人は多かった。曰く、文法中心でちっとも話せるようにならない、とか、中学から大学まで十年も勉強したのに、話せない、聞けないで役に立たない、とか。そんな不満が小学校からの導入や、「オーラル重視」という流れを生んだのだろう。

ただ、ひとつ疑問なのは、そんなことを言っている人が、現実にいま、過去の学校教育のおかげで困ったことになっているのだろうか。

なんだかんだ言っても、日本で生活している限り、英語とは無縁でいられる。ほとんどの人は英語など不要な生活を送っていて、過去に英語のテストで痛めつけられた苦い記憶だけが残っているから、つい、そんなことを愚痴混じりに言っているのではあるまいか。

ユニクロの社長始め、仕事で英語を日常的に使っている人は、どこかの段階で、相当しっかり勉強したはずだ。わたしもそうだけれど、必要に迫られれば、その必要に応じて勉強し直すよりほかなく、そうなってみれば記憶の隅に引っかかっている切れ切れの文法の知識が、意外と役に立つことを思い知らされたのではないか。少なくともわたしの場合はそうだった。文法というのはゲームのルールと同じで、ゲームを進めていくためには基本的なルールを身につけないわけにはいかない。それだけでゲームで勝つところまではいかないが、ルールを知らなければ、ほかのプレイヤーと同じスタートラインにさえ立てない。

文法なんて必要ない、子供を見てみろ、子供なんて文法など覚えなくても、外国で生活していればすぐに英語を覚える、と乱暴なことをいう人もいるが、これも相当にアヤシイ。実際に見てきた限りでは、子供が大人より早く覚えるということはなく、どれだけ「英語漬け」の環境にあったとしても、ちっとも「自然に」身につけることなどはないのである。まして、両親とも英語が使えない家の子となると、いくら現地の学校に放り込まれても、大人よりもひどいストレスを被ることはあっても、ちっともしゃべれるようにはならない。そんな子供たちは、英語を母語としない子供向けのメニューで、結局英語を文法から勉強していくしかないのだ。

もちろん、文法なんかムダだ! という語学の達人もいる。たとえばトロイの遺跡を発掘したシュリーマン。この達人は、どんな勉強方法で十数カ国語をモノにしたのだろうか。彼はこうやってギリシャ語を習得したのだそうだ。
語彙の習得はロシア語のときより難しく思われたが、それを短時日で果たすために、私は『ポールとヴィルジニー』の現代ギリシャ語訳を手に入れて、それを通読し、この際、一語一語を注意深くフランス語原文の同意語と対比した。この一回の通読で、この本に出て来る単語の少なくとも半分は覚え、それをもう一度くり返したのちには、ほとんど全部をものにした。しかも、辞書を引いて一分たりとも時間をむだにするようなことはしなかったのである。このようにして、私は六週間という短い期間のうちに、現代ギリシャ語をマスターすることに成功し、それから古典ギリシャ語の勉強に取りかかった。(略)

…ギリシャ語文法は格変化と規則動詞および不規則動詞だけを覚えた。一瞬たりとも、文法規則の勉強で貴重な時間をむだにはしなかったのである。(略)私の考えでは、ギリシャ語文法の根本的知識は、実地練習、つまり古典の散文を注意深く読むことと、模範的作品を暗記することだけで身につけることができる。私はこのきわめて簡単な方法に従って、古典ギリシャ語を生きた言語のように学習したのである。だから私は、決して言葉を忘れることなく、完全にすらすらと書き、どんな対象についてもらくらくと思うことを表現することができるのだ。
(ハインリヒ・シュリーマン『古代への情熱――シュリーマン自伝』新潮文庫)
なるほど、さようでございますか。
対訳本を使えば、辞書をまったくひかなくても、一回で単語の半分を覚えて、二回目にはそのほとんどをものにすることができるんだって!!「格変化と規則動詞および不規則動詞だけ」覚えれば、あとは「実地練習」だけで、「完全にすらすらと書き、どんな対象についてもらくらくと思うことを表現することができる」???

いや、確かにその勉強法はシュリーマンには合ったのだろう。勉強法というのは千差万別で、結局のところ、自分に合った勉強法というのは、試行錯誤しながら、失敗を積み重ねながら、自分なりにカスタマイズしていくしかないのだ。『合格体験記』というのがあるけれど、うまくいった人の勉強法を聞いたところで、何の参考にもならない(逆に、「不合格体験記」というのは実際にはないのだが、もしあれば意外と参考になるような気がする。それを避ければよいのだから。少なくとも、人の自慢を聞かされるよりは、失敗談を聞いていた方が楽しいではないか)。

なんにせよ、語学の勉強というのは、時間をかけ、積み重ねていくしかなく、しかも結果は否応なくつきつけられるものなのである。英文は読めないし、話すことが自分の中になければ、挨拶をしたあと、口ごもるしかなくなる。「まだうまく話せないから、話さない」と言っていては、話せるようになる日は永遠に来ない。どこまでやっても、母語としている人の域まで行けないし、レベルの差はあれど、失敗はつきもので、恥はかきつづけなければならない。とにかく勉強というインプットだけでなく、アウトプットをし続け、その結果を自分で受け止める。恥をかき、ほぞをかむその向こうに、自分の勉強の足りないところと、うまくいったところが見えてくるのだ。

がんばっていきまっしょい。


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