陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

良い、悪いではなく

2010-08-19 23:01:48 | weblog
もうずいぶん前になるけれど、一度入院しているときに、まだ若い、二十代に入って間もない女性と同室になった。彼女はよく夜中にナースセンターに行って、看護師さんに自分の身の上話をしていたのだが、なにぶんナースセンターが近かったので、聞くつもりなどなくても、夜の静かな病室にいると、話の中身が全部聞こえてきたのだった。

あっちへ飛びこっちへ飛ぶ散漫な話をまとめると、十代の終わりに、子供ができて結婚したこと、夫が自分勝手で暴力までふるうので、幼い子供ふたりを連れて離婚したこと、いまは両親と一緒に生活していて、入院中の子供たちの面倒は両親が見てくれているが、そのうち自分と子供たちで生活したいこと、ゆくゆくは自活したいが、手に職があるわけではないので、さしあたって生活保護を受けることを考えている、といったことらしかった。

これから先のことを考えると、聞いているだけでため息の出そうな話である。彼女は別れた夫がどんなひどい人間だったか、看護師さんに縷々訴えるのに余念がないようすだったが、そんなことより、あんたこれからどうするつもりなの……と、人の話を漏れ聞いているだけなのだが、思わず言いたくなってしまったのだった。

ところが初めての入院で、心細かったこともあったのだろうか、昼間の彼女はまるで別人なのだった。病室に友だちがひっきりなしに遊びに来る。彼女の両親も毎日何度となく顔を見せる。その見舞客らと楽しげにわらいさざめき、そんな話の端々から、彼女がその病院と同じ町内でまれ育ったことがわかった。地元で生まれ育ち、幼い時からの仲間と未だに親しく行き来しているらしく、仲間たちも、外側は知っていても内側は知らない病院を興味津々、といった格好でのぞきに来ているらしかった。

あるとき、携帯吸入器の使い方を教えてあげたら、友だちからの差し入れのおすそわけ、と言って、鯛焼きをくれた。その鯛焼きを並んで坐って食べながら、喘息とのつきあい方について、いろいろ教えてあげた。発症から間がない彼女は、入院してもタバコが止められないという。タバコなんか吸ってたら、子供をふたり残して死ぬよ、と脅した。それでもおじさんの入院患者に混じって、喫煙コーナーでタバコをふかしている彼女の姿を何度か見かけたが。

わたしの方が先に退院することになって、そのとき、相手から住所交換しよう、と持ちかけられた。病気のことで、またいろいろ教えて、という。こんなふうに人なつこい子なのだな、と思って、住所を教えた。まだメールもないころで、住所を教えても、こんな子が手紙を書くこともないだろうと思ったのをよく覚えている。

ところがその彼女から、退院してから手紙が来た。正確に言うと、雑誌の綴じ込みか何かについている絵はがきだったのだが、生まれてからまだあまり字をたくさん書いてきていないのではあるまいかと思えるほどの拙い、子供らしい大きな字で、宛名のわたしの名前を間違えたらしく、一箇所ボールペンでぐるぐると塗りつぶしたあとがあった。

一体何ごとか、と思ったところ、自分も退院したことが書いてあった。看護婦さんにはネコを捨てるように言われたけれど、そんなことはかわいそうでできない、といったことが書いてある。身近からアレルギーの原因になるものは、できるだけ排除した方がいい、ネコの毛がアレルゲンだったら、ネコは飼っちゃいけないから、友だちにあげたらいい、それならかわいそうじゃないでしょ、といった返事を書いたように思う。もちろん大変ではあるのだろうが、彼女のお父さんお母さんもまだ若いし、友だちも大勢いる。そんな中で生活するのだから、たとえ子供がふたりいても、大丈夫だろうと思ったものだった。

* * *

大阪で起こった二児遺棄事件を見て思うのは、友だちや、頼れる両親が身近にいさえすれば、そんなことはならなかっただろう、ということだ。あれから、彼女の行動に対する非難も見たし、擁護する文章も読んだ。だが、いずれにせよ、起こった事件に対して、その行為の善悪を問うことは、あまり意味がない。

善悪を問うことと、どうしたら解決できるかを考えることは、レベルがまったく異なる話だ。悪いことをしようとしている人が、それが悪いことだ、とわかったら、それを止めるかというと、実際にはそんなことはあり得ない。悪いことをしようとしてしまう人は、どこかの時点でそうしないですむような状況を創り出してくれる人がいなかったから、そうする以外になかったのだ。

いじめる側といじめられる側のどちらが悪いか、という質問をたまに見かけるが、これなどこのふたつが混同されているケースの典型だろう。いじめ問題に関しては、一も二もなくいじめる側が悪い。だが、それを解消しようとすると、いじめる側だけの問題ではなくなってくる。とりわけ、消極的なかたちで多くの子が関与していて、しかも自分が虐められている子を助ければ、たちまち自分が標的になってしまう、だからいじめに荷担している、といった状況では、「どちらが悪いか」と「どうやって解決するか」はまったくちがう話になってくる。

身近なところで誰かと争ったようなとき、自分に非がないとわかっていて、それでも事態を収拾しなければならないとき、自分の側が折れたりゆずったり、解決策のために尽力したりした経験はないだろうか。

実際、問題が起こったときに収拾するのは、問題を起こす側ではなく、何も問題のない側なのだ。というのも、問題を起こす側は、能力やさまざまな条件に欠けているから問題を起こすのだから、収拾などできようはずがない。良い、悪いで言ってしまえば、悪くない側が頭を使ったり、頭を下げたりすることになるのだ。

事件が起こったとき、わたしたちはつい、誰が悪いのか、と考える。犯人が捕らえられたあとも、なおも犯人にそんなことをさせたのは、誰が悪かったかと考える。

けれども、誰が悪いかを考えても、ほとんど意味はないのだ。事態を収拾できるのは、悪くない側しかないのだから。

誰が悪い、と言っている人は、自分がなんの関係もないから、自分は何も悪くないから、平気で誰が悪い、と言うことができる。けれど、自分が悪くないのなら、悪くない自分に何ができるかを考えなければならないことを忘れてはいけない。




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