陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

責任ってなんだろう その6.

2010-01-29 23:45:36 | 
6.原因はひとつではないことと責任転嫁


こんなケースを考えてみたい。

ある中学生AがクラスメイトBをからかった。Bはその言葉に傷つき、登校拒否になってしまった。
これだけ聞くと、どう考えてもBの登校拒否の責任はAにある。

ところが問題はいささか込み入っている。
クラスの中では、むしろAの方が、日常的にからかわれ、バカにされている生徒だったのである。

クラスには成績が良かったり、運動部の花形選手だったりして、クラス中から一目置かれるメンバーからなるグループがあった。Aは、そうした彼らに、ときにいじめられ、ときに「パシリ」として使われ、あるいはまた休憩時間には一緒に遊んだりするような存在だった。

AがBをからかった言葉は、そもそもグループの面々がBに対してつけたあだなだったのだ。彼らがBをそのあだなで呼ぶのを、Aは単に真似をしたに過ぎなかった。

Bからしてみれば、そのあだなで呼ばれることが不快であっても、みんなから一目置かれているグループの連中にそう呼ばれるのは、なんとか我慢ができた。だが、みんなにからかわれ、バカにされているAから、その名で呼ばれることは、耐えられないことだったのかもしれない。

こう考えていくと、AはBが登校拒否になったことに、どこまで責任があると言えるのだろうか。

もちろんAがそのあだなで呼ばなくても、Bは登校拒否になってしまったかもしれない。
Aが呼ばなくても、グループの面々が呼び続けていくうちに、登校拒否になるかもしれない。
あるいは仮にAがそのあだなで呼んだとしても、Bにたとえばほかに仲の良い友だちが慰めてくれたり、かばってくれたりするようなことがあれば、Bは登校拒否にならなかったかもしれない。
たかがあだなぐらいで、登校拒否になるBは、弱い子だった……といえるかもしれない。
AがそのあだなでBを呼んだのは、自分の意志というよりは、グループに対しておもねる気持だったのかもしれない。

Aの行為はAがそう選択したのだから、Aにすべての責任がある、と、かならずしも言うことはできないのだ。

だが、そこでもしAが「Bの登校拒否の責任は、自分にはない、自分だけがそのあだなで呼んでいたわけではないのだから」と言ったとしたら、わたしたちは何となく釈然としない気持になるのではないだろうか。あなたひとりにすべての責任があるとは言わないけれど、やっぱり責任のいくばくかはあるよ、と言いたくなるのではあるまいか。自分に責任がないというのは、それは責任転嫁だよ、という気持にならないだろうか。

わたしたちは自分のとった行為がある結果を引き起こしたとき、なぜその行為を取ったかの理由を聞かれる。理由を聞かれるということは、たとえ深く考えた末の行為ではなく、たとえ自分でも理由を説明できないとしても、自分の行為に責任があるということなのである。

そうしていったん事が起こってしまったら、今度は自分がそのことに、どう責任を取っていくかが問題になってくる。しかたがなかった、やむをえなかった、という態度でつっぱねないのだとしたら、責任を取らないわけにはいかなくなる。

何かを壊したのなら話は簡単だ。けれども人の心が相手だと、そんなに簡単にはいかない。
言葉で謝罪する。
謝罪の意を行為で表す。
それ以外にも、責任を負う方法はあるのだろうか。



夏目漱石の『こころ』はさまざまな観点から読むことができる作品だが、ここでは「責任」ということに的を絞って考えてみたい。

Kが自殺する直接のきっかけを作ったのは先生だった。だが、先生がKをなじったあげくに出し抜いて、お嬢さんを手に入れるようなことをしなければ、Kは自殺することはなかったのだろうか。

Kは精神に生きる決意をしていたが、お嬢さんを好きになり、自分の従来の生き方を貫くか、それを曲げるかの岐路に立たされていた。もしKが先生に自分の気持ちを打ち明けたとき、先生がふたりの仲を取り持ってやれば、Kが自殺することはなかったかもしれない。けれどもKは遺書に「自分は薄志弱行で到底行先の望みがないから自殺する」という言葉を残すのだが、仮にお嬢さんと結ばれても、この「薄志弱行」の思いはKを苦しめたことだろう。KはKであり続けようとすれば、自殺するしかなかった、ともいえる。

けれども、先生はその自殺の責任を、ひとりで負うことに決めた。そのために、自分の生の時間を止め、Kの死に至るまでのいきさつを反芻することを生きる目的としたのである。おそらく奥さんの存在は、Kのことを片時も忘れないために必要だったのだ。

ただ、先生の自殺は、自分の命でもって償おうとしたとは考えにくい。みずからの命で贖うのだとしたら、もっと早くに自殺していたはずだ。むしろ先生は生きながら死ぬことを選んでいた。

先生を自殺に導いたことにはふたつの要因があったように思う。ひとつには、乃木大将の殉死と、自分のことを「先生」と慕う「私」の存在である。

このことをもう少し詳しく見ていきたい。

(この項つづく)



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