身体があるから理解もできる
昨日も見てきたように、わたしたちは身体を媒介にして他人を理解している。「相手の心を読む」という言い方があるが、わたしたちが「読んで」いるのは、心ではなくて、表情や声の調子を含めた相手の身体なのである。
こんな経験はないだろうか。
目の前で誰かが転ぶ。「危ない!」と、わたしたち自身の身体が硬直する。
人が梅干しを食べようとする。わたしたちの口のなかにも唾が溜まってくる。
あくびがうつる。
笑いかけられると、思わずこちらもほほえんでしまう。
目の前の人が上を見れば、つられてこちらも上を見てしまう。
映画を観ていて、殺人鬼が斧を振り回しながら現れる。その斧がざっくり、被害者の頭にめり込む瞬間、作り物とわかっていても、見ているわたしたちの脳天に、何か違和感を覚える。
「手のひらを向こう側に向けて左手を立て、中指と薬指のあいだを開いてくさび形を作った」
ここを読んで、実際にその手の形をやってみませんでしたか?
このように、わたしたちはほとんど意識することもなく、他人の身体動作を模倣してしまうのだ。こうした共鳴性は、生まれつきわたしたちに備わっている。
わたしたちの他人に対する理解は、身体のこの共鳴を基盤としているのだ。
だが、この共鳴というのは、たとえば「ぎっくり腰で動けない」という話を聞いて、「ああ、確かに自分も経験はあるが、あれは痛い」と感じるときのように、自分の経験を相手に投影させて理解しているのだろうか?
高校時代、部室に引き延ばした写真が貼ってあった。被写体の女の子の上唇は、下唇の下に引きこまれ、下唇は鼻の下に向かって突き出されている。愉快な表情の写真だったのだが、おかしいことにそれを見る人は、かならず自分も同じ表情をしているのだった。
写真の女の子の顔を真似ている人は、自分の顔を確かめながら、相手に似せようとしているわけではない。わたしたちは自分がどのような顔をしているかわからなくても、真似はできる、というか、真似をすることによって、自分が浮かべている表情を把握するのである。つまり、この共鳴は、自分のかつての経験を、相手に投影しているのではなく、相手の身体の状況に触発されて、こちらの身体が共鳴してしまうのである。
こう考えていけば、わたしたちが誰かと話をするときに、会話がここで終わる、と双方が快く合意するのでないかぎり、会話は適切なやり方で続けられなければならない、という了解事項を暗黙の内に持っている理由も想像がつきそうだ。つまり、会話をやめようと合意するのでないかぎり続けていくのは、それが慣習や礼儀だからではなく、あるいはその方が自分にとって有利だからでも理にかなっているからでもなく、わたしたちが身体を備えているからだ、と言えないだろうか。
呼びかけられれば振り返る。相手が自分に話しかければ、それに応える。相手の怒りはこちらの怒りを触発し、涙は涙を誘う。それはわたしたちが身体としてあるからだ。
けれども、こちらに向かってにこやかにほほえむアイドルのポスターは、かならずしもわたしたちの笑顔を誘発することはない。おそらくそれは、作り物の笑顔だからではなく(そういうこともあるだろうが)、やはり相手を直接に見知っているわけではないからだろう。
あるいはまた、見知らぬ人であっても、「すいません」と自分に直接呼びかければ立ち止まるが、テレビ画面の向こうから「助けて」と悲鳴が聞こえても、何とも思わない。それが自分に向けての呼びかけではないことを知っているからである。
わたしたちの身体は、こうだからこうだ、こういうときはこうした方がいい、などと判断する前に、話しかけられればそれに応えるようになっているのだ。
昨日も見てきたように、わたしたちは身体を媒介にして他人を理解している。「相手の心を読む」という言い方があるが、わたしたちが「読んで」いるのは、心ではなくて、表情や声の調子を含めた相手の身体なのである。
こんな経験はないだろうか。
目の前で誰かが転ぶ。「危ない!」と、わたしたち自身の身体が硬直する。
人が梅干しを食べようとする。わたしたちの口のなかにも唾が溜まってくる。
あくびがうつる。
笑いかけられると、思わずこちらもほほえんでしまう。
目の前の人が上を見れば、つられてこちらも上を見てしまう。
映画を観ていて、殺人鬼が斧を振り回しながら現れる。その斧がざっくり、被害者の頭にめり込む瞬間、作り物とわかっていても、見ているわたしたちの脳天に、何か違和感を覚える。
「手のひらを向こう側に向けて左手を立て、中指と薬指のあいだを開いてくさび形を作った」
ここを読んで、実際にその手の形をやってみませんでしたか?
このように、わたしたちはほとんど意識することもなく、他人の身体動作を模倣してしまうのだ。こうした共鳴性は、生まれつきわたしたちに備わっている。
わたしたちの他人に対する理解は、身体のこの共鳴を基盤としているのだ。
だが、この共鳴というのは、たとえば「ぎっくり腰で動けない」という話を聞いて、「ああ、確かに自分も経験はあるが、あれは痛い」と感じるときのように、自分の経験を相手に投影させて理解しているのだろうか?
高校時代、部室に引き延ばした写真が貼ってあった。被写体の女の子の上唇は、下唇の下に引きこまれ、下唇は鼻の下に向かって突き出されている。愉快な表情の写真だったのだが、おかしいことにそれを見る人は、かならず自分も同じ表情をしているのだった。
写真の女の子の顔を真似ている人は、自分の顔を確かめながら、相手に似せようとしているわけではない。わたしたちは自分がどのような顔をしているかわからなくても、真似はできる、というか、真似をすることによって、自分が浮かべている表情を把握するのである。つまり、この共鳴は、自分のかつての経験を、相手に投影しているのではなく、相手の身体の状況に触発されて、こちらの身体が共鳴してしまうのである。
こう考えていけば、わたしたちが誰かと話をするときに、会話がここで終わる、と双方が快く合意するのでないかぎり、会話は適切なやり方で続けられなければならない、という了解事項を暗黙の内に持っている理由も想像がつきそうだ。つまり、会話をやめようと合意するのでないかぎり続けていくのは、それが慣習や礼儀だからではなく、あるいはその方が自分にとって有利だからでも理にかなっているからでもなく、わたしたちが身体を備えているからだ、と言えないだろうか。
呼びかけられれば振り返る。相手が自分に話しかければ、それに応える。相手の怒りはこちらの怒りを触発し、涙は涙を誘う。それはわたしたちが身体としてあるからだ。
けれども、こちらに向かってにこやかにほほえむアイドルのポスターは、かならずしもわたしたちの笑顔を誘発することはない。おそらくそれは、作り物の笑顔だからではなく(そういうこともあるだろうが)、やはり相手を直接に見知っているわけではないからだろう。
あるいはまた、見知らぬ人であっても、「すいません」と自分に直接呼びかければ立ち止まるが、テレビ画面の向こうから「助けて」と悲鳴が聞こえても、何とも思わない。それが自分に向けての呼びかけではないことを知っているからである。
わたしたちの身体は、こうだからこうだ、こういうときはこうした方がいい、などと判断する前に、話しかけられればそれに応えるようになっているのだ。
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