陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

言葉と仕草

2009-08-25 22:35:54 | weblog
言葉と仕草

怒っている人が周囲にいると、わたしたちはほぼ確実にそれに気がつく。別に声を荒げたり、物を放り投げたり、ドアを叩きつけたりするばかりではない。たとえ普段と同じようにドアを閉めたとしても、微妙に荒かったり、とげとげしかったりする。怒っている人がひとりいるだけで、部屋全体の空気がぴりぴりしてしまうほどだ。

その人に「どうかした?」と聞いてみる。だが、それは怒っているかどうかを尋ねるためではなく、いったい何に腹を立てているのか知りたいからだ。たとえ「何でもない」と返事が返ってきても、まちがっても「何でもない」とは思わない。

わたしたちは言葉ではなくて、その人の動作のなかに「怒り」を読みとるのだ。
では、怒っている人の身ぶりの底(たとえば「心」のような場所)に「怒り」の核のようなものがあって、動作や言葉はまるでマリオネットのように、その「怒り」に操られているのだろうか。おそらくそうではない。怒りの動作やとげとげしい声が「怒り」そのものなのだ。

確かに、動作と気持ちが裏腹な場合はある。たとえば太宰治の短篇には、完璧な嘘で人を騙す女性がでてくる「嘘」という作品がある。

太宰を思わせる、津軽に疎開してきた作家が、幼なじみの地元の名誉職(市会議員かなにかであろうか)の話を聞く。

戦争中、嫁をもらったばかりの若い百姓が徴兵される。ところが彼は入隊せず、脱走してしまった。そこで名誉職は、その若い百姓の家を訪れる。そこには彼の新妻がいる。

名誉職は嫁に事情を話す。悪いようにはしないから、彼が戻ってきたら、すぐに自分に知らせてほしい。

 嫁は、顔色もかえず、縫い物をつづけながら黙って聞いていましたが、その時、肩で深く息をついて、
「なんぼう、馬鹿だかのう。」と言って、左手の甲で涙を拭きました。

そのとき馬小屋の方から咳払いが聞こえてきた。
名誉職はぎょっとして、馬小屋にかくまっているのではないか、と問いつめる。
 私のあわてて騒ぐ様子が、よっぽど滑稽なものだったと見えて、嫁は、膝の上の縫い物をわきにのけ、顔を膝に押しつけるようにして、うふふふと笑い咽んでしまいました。しばらくして顔を挙げ、笑いをこらえているように、下唇を噛んで、ぽっと湯上りくらいに赤らんでいる顔を仰向けて、乱れた髪を掻きあげ、それから、急にまじめになって私のほうにまっすぐに向き直り、
「安心してけせ。わたしも、馬鹿でごいせん。来たら来たと、かならずあなたのところさ、知らせに行きます。その時は、どうか、よろしくお願いします。」

涙をこぼしたり、笑ったり、まじめな顔で頭を下げたりするこの嫁は、二日前から夫をかくまっていたのだ。

だが、名誉職がこの嫁に騙されたのは、嫁の動作に心情が現れていると感じたからだ。「私は、あの嫁には呆れてしまいました」と名誉職が言うのは、わたしたちの仕草は感情をそのまま表現する、つまり、仕草と感情は同じものだと考えているからこそなのだ。

小さな子供ならいざしらず、現実にわたしたちは、社会関係のなかであまり自分の感情や欲望を剥きだしにすることはない。だから、わたしたちは相手のちょっとした表情の変化や動作から相手の感情や思いを読みとろうとする。わたしたちが読んでいるのは、「心」ではなくて、相手の表情や仕草なのである。

言葉にしてもおなじことだ。わたしたちはその声音やちょっとした言い方の変化で「それはどういうこと?」という言葉が、文字通りの疑問か、反論か、非難か、怒っているのか、悲しんでいるのかを理解しようとしているのだ。

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