陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「私」と「I」の狭間で ――主語を考える――その5.

2005-01-14 19:12:00 | 
その5.「私」で考え、「I」で考える

これまで見てきたように、日本語が自分を指す一人称代名詞を使わなくても成立するのは、日本語の文では、主語が重要ではないこと、場に拘束される要素が強いことから、語り手としての「私」の存在は、暗黙の前提となっているからだ。
ところが「私」を言わない、すなわち動作主を明らかにしないことで、因果関係は不鮮明になり、話は主観的な、その場その場に拘束された、ごく具体的なものにとどまりがちになる。

古来からの日本語の傾向として、そのような側面があったのだろうし、柳父章が指摘するように、翻訳によって大きく変わってきた部分もあるだろう。


西洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。……日本の開化はあの時から急劇に曲折し始めたのであります。また曲折しなければならないほどの衝動を受けたのであります。これを前の言葉で表現しますと、今まで内発的に展開して来たのが、急に自己本位の能力を失って外から無理押しに押されて否応なしにその云う通りにしなければ立ち行かないという有様になったのであります。それが一時ではない。四五十年前に一押し押されたなりじっと持ち応えているなんて楽な刺戟ではない。時々に押され刻々に押されて今日に至ったばかりでなく向後何年の間か、またはおそらく永久に今日のごとく押されて行かなければ日本が日本として存在できないのだから外発的というよりほかに仕方がない。……この圧迫によって吾人はやむをえず不自然な発展を余儀なくされるのであるから、今の日本の開化は地道にのそりのそりと歩くのでなくって、やッと気合を懸けてはぴょいぴょいと飛んで行くのである。開化のあらゆる階段を順々に踏んで通る余裕をもたないから、できるだけ大きな針でぼつぼつ縫って過ぎるのである。足の地面に触れる所は十尺を通過するうちにわずか一尺ぐらいなもので、他の九尺は通らないのと一般である。(夏目漱石『現代日本の開化』)

西欧の圧倒的な技術力を目の当たりにした当時の日本の指導者は、なんとかその落差を埋めようとした。
技術を取り込むために、社会や教育を変えていこうとした。そうしたなかで、言文一致の運動が起こり、書き言葉を中心に、日本語は大きな変貌を遂げる。
加えて「自由」「権利」「国家」「自然」などの従来なかったさまざまな概念が移植された。その多くが、わからないまま、丸飲みにされてきた。

***

わたしたちは、日本語で考えている。「母国語は、それを母国語とする人たちを、思考や感情など人間の営みのすべての領域において、決定的に規定する」という片岡の指摘は、まさにその通りだろう。
ならば日本語が、どのような「くせ」を持っているのか。そうした「くせ」を、はっきりとわきまえておく必要があるのではないか。
こうしたことは、外国語と比較対照したときに、きわめて鮮明になる。

ことばは他者の存在を前提としたものだ。人間がひとりきりで生きるのなら、ことばは必要ない。
ことばを他者に向けて発する。それが相手に届く。こんどは相手からことばが返ってくる。こうしてことばは、ひととひとのあいだに関係をつくる。

わたしはこう思う。
わたしはこうしたい。
場からの拘束が強いことばは、ときに大変スムーズに進む。
「課長、今度の××の件、○○でやっていくから」
「了解しました、部長」
それを実際にするのはだれなのか、なぜそうしなければならないのか、もしうまくいかなかったときはどうするのか、そうしたことは一切不問にされたまま。
逆に課長が自分の「こうしたい」を通したいときは、あらかじめ根回しをしておくといい。

こうした日本語による言語活動のマイナス面は、すでに十分すぎるほど指摘されてきた。その結果、改善されつつあるのだろうか。
わたしにはわからない。

ただひとつ言えるのは、言語は習得していくものだ。わたしたちは母国語は「自然に身についた」と思っているけれど、決して自然に身についたわけではない。まずは幼児期、周囲のおとなのことばを真似することから始まって、学校教育やさまざまな経験を通じて、獲得していったものだ。そうしてこれは、学校教育が終了すれば終わりになる、というものではない。

本を読む。他者の話を聞く。他者と話をする。他者に向けて書く。
そのとき、自分が日本語を使っていることを、意識の隅に、つねに留めておく。
できれば、外国語を学ぶ。
自分の発想が、日本語の枠に留まったものであるかどうかがこれほどよくわかる機会はほかにはない。
そうすることによってしか、自分のことばの質を高めていくことはできないのではないだろうか。
そうしてまた、他者とのコミュニケーションを深めていくためには、みずからのことばの質を高めていくことによってしかなされないのではないだろうか。

(この項終わり:自分自身整理が十分についていたわけではなく、わかりにくいところも多々あったかと思います。おつきあいありがとうございました)

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5 コメント

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主語抜き (arare)
2005-01-14 19:36:35
「ママでなくてよかったよ(森下純子 著)」というタイトルの本があります。私は最初これを見たときに、ギョッとしました。



小児がんで逝った8歳のわが子の闘いを綴った本ということですが、常識的に考えたら「ママでなくてよかったよ」というのは、わが子が発した言葉であり、何と健気で切ない言葉だろうと思います。しかし、これがもしママが言った言葉だとしたら、とんでもない意味に受け取られてしまいます。



日本語は確かに主語がなくても、誰が誰に言った言葉かというのがある程度わかります。それは男言葉、女言葉、尊敬後、丁寧語、謙譲語など、そして前後の文脈から類推できるからだと思いますが、それに慣れてしまっているためか、日常のメールでも主語を抜かしてしまい、誤解を受けてしまうことがあります。



『「私」と「I」の狭間で』の非常に深い考察、なるほどと思うことが多く、興味深く読ませていただきました。ありがとうございます。

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言い訳? (ゆふ)
2005-01-15 17:57:37
今回の連載を読み、谷崎潤一郎の『文章読本』を思い出したので、同書の「西洋の文章と日本の文章」という章を久しぶりに読み返して(拾い読み)みたところ、こんな箇所に興味を持ちました。



 たゞ茲に困難を感ずるのは、西洋から輸入された科学、哲学、法律等の、学問に関する記述であります。これはその事柄の性質上、緻密で、正確で、隅から隅まではっきりと書くようにしなければならない。しかるに日本語の文章では、どうしても巧く行き届きかねる憾みがあります。従来私は、しば\/独逸の哲学書を日本語の訳で読んだことがありますが、多くの場合、問題が少し込み入って来ると、わからなくなるのが常でありました。そうしてそのわからなさが、哲理そのものゝの深奥さよりも、日本語の構造の不備に原因していることが明らかでありますので、中途で本を投げ捨てゝしまったことも、一再ではありません。(谷崎潤一郎『文章読本』)



私は哲学方面の本はめったに読みませんが、たまに手を出すと、それが初学者向けのものであっても、読むのにかなり苦労します。(谷崎が投げ捨てたのはもっと難しい本だと思います)

そんな時、理解できない自分が嫌になることもあるのですが、「哲理そのものゝの深奥さよりも、日本語の構造の不備に原因している」という言葉に少しだけ慰められました。

…あくまでも少し。日本語のせいばかりにするつもりはない(^-^;)

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ふー、やっとひと仕事終わりそうです (陰陽師)
2005-01-16 22:11:27
arareさん、こんばんは。



>「ママでなくてよかったよ(森下純子 著)」というタイトルの本があります。私は最初これを見たときに、ギョッとしました。

これ、朝日新聞社文庫ですよね? わたしもこのタイトルには、ギョッとしました。

この本のことではないのですが、最近、『バカの壁』とか『オニババ化する女たち』とか、内容というより、ギョッとさせることが目的なのでは? と思ってしまうようなものが多いような気がします。まずギョッとさせて、とりあえず手に取らせてみよう、みたいな。



時枝誠記は、日本語はなによりも「辞」が大切と言いました。だからこそ、俳句や短歌のような形式が生まれたともいえます。西洋語流の論理性には欠けるかもしれないけれど、含蓄や余韻を求める、非常に繊細な言語でもあるわけです。

そういう日本語から考えると、こうしたタイトルは、いかがなもんだろうか、と思ってしまいます。

西洋語流の客観を目指しているわけでもない。

古来からの日本語の持つ、含蓄や余韻など顧みることもない。

なんだかなぁ、と、内容を見るよりも先に、なんともいえない気がしてしまいます。



その本に関しては、七歳でしたっけ、その男の子のことばを元にしたタイトルなんですよね。

文脈の中で読めば、たぶんその子の母親に対する思いに涙を誘われるのでしょう。

けれども文脈から切り離し、女性の著者名がそのあとに続くと、誤解を生んでしまうのではないでしょうか。



主語、英語と日本語、本を読んで考えても、なかなかはっきりとはしてきません。書くことで、少しずつ整理し、自分なりの文脈に移し替えていく、その作業場をお見せしているようなものです。

かなり雑然とした作業場ですが、これからも遊びにいらっしゃってください。



ゆふさんも、こんばんは。



谷崎、投げ捨てちゃうんですね(笑)。怒るんだろうな。

谷崎って、相撲がキライだったんですって。で、何でキライか、と聞かれてこう答えたらしい。

「なんであんな汚いものを見なければならないんだっ」

確かに、ひと昔前のものは、哲学書ばかりでなく、文学書だって、ひどい翻訳が多すぎます。「彼」を全部訳した翻訳なんて、ほんとうに何が書いてあるか、わからないんですよ。



>「哲理そのものゝの深奥さよりも、日本語の構造の不備に原因している」

うーん。どうでしょう。日本語に哲学が扱えない、論理が扱えない、とは思わないんです。

ずいぶん明晰な、わかりやすい日本語を書く人もたくさんいると思う。

初学者向けの哲学書が簡単か、というと、そうでもないです。

だけど、そんななかでは、永井均の『子どものための哲学』が好きだったな。

そのなかにね、友だちっていうものは、必要ない、と思える、そういう人にだけ、ほんとうの友だちができるんじゃないか、っていう部分があるんです。

小学生で、けっこうきつかった時期、出会っていれば、と思いました。

いまでもどこかで支えになっているところがあります。



とりあえず仕事も明日で一段落つきそうなので、ブログ、もうちょっと書いていこうと思っていますので、またよろしく。
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是非Beも。 (rai)
2005-01-18 00:44:17
『「私」と「I」の狭間で』、面白く読ませて頂きました。

日本の古典にはまっている時、日常会話の洞察力というか、理解力が格段に良くなる気がします。文語は、今の日本語からすると情報がすごく少ないので、それに慣れるとなんとなく、日常の日本語が簡単に感じるんですよね。単語が難しいのもありますが、なるほど主語や述語が明確に無いというのが一番の理由かもしれません。

今度是非「Be」についても書いて下さい。



永井均、いいですね。読み物として面白い。独我論ですね。

シモーヌ・ヴェイユの「友情は、芸術や人生がもたらしてくれるよろこびと同じ、価なしに与えられるよろこびでなくてはならない。そういう友情を受けるねうちのある者となるために、友情を拒否しなくてはならない。(『重力と恩寵』)」という言葉を思い出しました。



ではまた次を楽しみにしております。
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文語は苦手です (陰陽師)
2005-01-18 22:12:14
漱石の文明論を引用していて気がついたんですが、あれ、なんと1911年の講演なんです。百年たってない。



にもかかわらず、言文一致前のいわゆる文語文、わたしなんか読むのに苦労してしまいます。



シェイクスピアの英語よりも、わかりにくい。

たかだか百二十年ほど前なのに、怖いほどの大きな断絶があるような気がします。

そういうのは、やっぱりおかしい。



何がおかしいのか、どうおかしいのか、もう少しシツコク考えていきたいと思っています。



>是非「Be」についても



Be動詞とは、鋭い着眼点ですねー。ぜひぜひ、raiさん、やってくださいな(^_^)。



実はこれに関連して、実におもしろい池上嘉彦の“「もの」と「こと」”に着目した英語と日本語の比較論、さらに同じく池上の“「する」と「なる」”の比較論もあるんです。

どのように扱ったらよいのか、まだ自分でも整理がついてないんですが、そのうち何とか書いてみたいなと思います。単純に紹介しただけの方がいいかもしれないけれど。



シモーヌ・ヴェイユのカッコイイことば、どうもありがとうございました。

気合いが入りますねー。ぬるく群れてなんかいられません。



本を読むことは、やはり孤独な行為です。

それでも、まぎれもなく、他者のことばを読むことはコミュニケーションだし、それをただ、自分の内に留めておくだけでなく、さらにそこから発信していくことも、コミュニケーションだと思います。

より深いものを求めるためには、いったん、世界に背を向け、そこからもういちど向き合っていくってことなんでしょうか。

何かそういうこととパラレルに読んでしまいました。



また遊びにいらっしゃってくださいね。
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