陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ジョン・スタインベック 「菊」その3.

2007-12-09 22:36:19 | 翻訳
その3.

 車輪がギイギイときしる音と鈍重なひづめの音が道の方から聞こえてくる。エリーサは顔を上げた。田舎道は川沿いに茂るヤナギやハコヤナギの土手に沿って続いているのだが、その道をこちらに向かって、奇妙な生き物に引かれて奇妙な荷馬車がやってきた。昔ながらのばねのついた荷馬車で、幌馬車のおおいのように、帆布でてっぺんをまるく覆っている。引いているのは栗毛の年寄りの馬と、灰色と白の小さなロバだ。大きな体つきの無精ひげをはやした男が垂れ下がっている覆いのあいだにすわって、這うように進む馬とロバの手綱を取っていた。荷馬車の下、後部車輪のあいだには、痩せて足のひょろ長い雑種犬が悠然と歩いている。帆布には下手くそなカナ釘流でなにやら書いてあった。「鍋、釜、包丁、鋏、芝刈り機 修繕」扱うものを二段に、その下に、さあどうだとばかりに麗々しく「修繕」と書き連ねてある。どの字の先も黒いペンキが垂れて、先が鋭くとがっていた。

 エリーサは地面にしゃがんだまま、おかしな、がたがた鳴る荷馬車が通っていくのを見ていた。ところが通りすぎようとしない。荷馬車は向きを変えて、家の前の農道に、ゆがんだ車輪をキイキイギイギイいわせながら、入ってきたのである。ひょろひょろの犬が車輪の間から飛び出して、先に立って走った。すぐ、農場の二匹のシェパードも、その犬のところへ飛んできた。三匹は静止したまま、こわばったしっぽをぶるぶるとふるわせ、脚をまっすぐ踏ん張って、大使のような威厳を見せた。やがてゆっくりと円を描きながら、行儀良く臭いを嗅ぐ。幌馬車はエリーサの金網のところまでくると、そこで止まった。新参者の犬は、多勢に無勢を感じたのであろう、首の毛を逆立て、歯をむき出したまま、尻尾を垂れて荷車の下に退却した。

荷馬車の座席から男が大きな声で言った。「そいつがいったんその気になりゃ、ケンカにかけちゃ性悪になるんだ」

 エリーサは笑った。「そうらしいわね。その気になるまでふつうはどのくらいかかるの」

 男もエリーサの笑い声を聞いて、腹の底からおかしそうに笑い返した。「ときによっちゃ何週間経ってもそうならないこともあるんだがね」男は車輪をまたいで、ぎこちない動作でおりてきた。馬もロバも、しおれた花のようにうなだれている。

 エリーサは男がことのほか大きいのに気がついた。髪も髭も白くなりかけていたが、年寄りくさくはなかった。着古した黒いスーツは皺くちゃで、油の染みが点々とついている。笑い声がやんだと同時に、顔からも目からも笑いはかき消えていた。濃い色の目には、御者や水夫の目に染みついた、物思いにふけっているような色があった。金網にのせたタコのできた手はひび割れて、そのひび割れ一本一本が黒い線になっていた。彼は型のくずれた帽子を取った。

「大通りを外れちまったんでさ、奥さん」男は言った。「この砂利道を行ったら、川を越えてロス・アンジェルス街道に出られるかね」

 エリーサは立ち上がって、大きなハサミをエプロンのポケットに押し込んだ。「まあ、確かに出られるんだけど、大まわりになるし、川を渡らなきゃならない。その馬とロバじゃ砂地を引いて行けそうもないわね」

 男はいささかぶっきらぼうな口調で答えた。「こいつらが引っ張っていくところを見たら、あんた、きっと驚くよ」

「その気になったら?」

 男は一瞬笑ってみせた。「ああ、その気になったらな」

「ま、サリナス街道まで引き返して、そこからロス・アンジェルス街道へ向かった方が時間の節約になると思うわ」

 男は太い指を金網に引っかけ、音を立てた。「奥さん、わしは別に急いじゃおらん。シアトルからサン・ディエゴまで、毎年行ったりきたりしとるんだ。時間をかけてな。片道、半年ぐらいだ。いい季節を追っかけて」

 エリーサは手袋を脱ぐと、ハサミと同じポケットに入れた。男物の帽子の内縁に手を遣って、ほつれ毛を手で探る。「なかなかよさそうな暮らしじゃないの」

 男はなれなれしく金網から身を乗り出した。「荷馬車に書いてあることは気がついてくれたかね。鍋の修繕だろうが、包丁やハサミの研ぎだろうがなんでもやる。何かないかね」

「ないわ」彼女はあっさりそう言った。「そんなものはない」その目ははねつけるようにきつくなった。

「ハサミってやつは何より厄介だ」男は言った。「たいていの人間は、研ごうとして、ダメにしちまうんだが、わしはどうやったらいいか知ってるんだ。特別な道具があるんだ。ちょっくらザラついてるやつでね、特許ものなんだ。だがそれもこつがいる」

「結構よ。うちのハサミはどれもよく切れるわ」

「そりゃよかった。じゃ、鍋はどうだ」男は懸命に食い下がった。「へこんだ鍋だろうが穴の開いた鍋だろうが、新品みたいにしてやるよ。そしたら奥さんは新しいのを買う必要もない。あんたも節約になるだろ」

「ないの」そっけなく言った。「あんたにしてもらわなきゃならないようなものは何にもないのよ」

 男はおおげさに、がっかりしたような表情を浮かべて見せた。声までが泣き言めいて細々としたものになっている。「今日はまるっきり仕事にあぶれてなあ。夕飯にもありつけそうにない。いっつもの道から外れたもんだから。街道なら、シアトルからサン・ディエゴまで、知った顔ばっかりなんだがな。みんなわしのために研ぎの仕事を取っておいてくれるんだ。なにしろわしがいい仕事をして、みんなの節約の助けをしとることをみんな知っていてくれるでな」

「悪いんだけど」エリーサはいらだたしげに言った。「あんたにやってもらうような仕事は何もないの」

(この項つづく)


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