志方町をゆく(134) 横大路(9) 集団疎開(7)
お父さんが来た
〈上田 登〉
七月の暑い盛りの日、授業中に浜田先生が「上田!お父さんが来られたよ。授業はよいから逢ってきなさい」と・・・
予想もせぬ父の来訪に言葉もでないほどうれしかった。
父は内地召集で戦闘帽・ゲートル姿だったと覚えています。
公会堂より少し離れた畑の中の大きな石に、腰をかけて二時間ほど二人きりで嬉しい時間を過ごしました。
思いだすことは、お寺の本堂の石段に並んで座り、シラミを潰した事。公会堂の庭で上級生が、バリカンで、頭をかってくれた事。志方村の北部に少年通信兵の訓練校があった事。畑で芋を堀り生で食べて叱られた事、等々・・・。
終戦、そして集団疎開が終わった
八月十五日の終戦後、親がむかえに来る様になり、残留者がどんどん滅ってまいりました。
しかし、いつか神戸に帰れる安心感で、それ以後は気持も落着きました。 秋に入り中町公会堂の仲間も十人位になり、家へ帰れる日を一日千秋の思いで待っておりました。
・・・・
(十一月下旬)引率され帰神、(空襲で家は焼けたので)諏訪山小学校の音楽室に一時落ち着きました。
数日後、父が迎えに来てくれました。
再度山の仮り住いに両親、祖母、兄弟妹と家族が揃いました。とても不思議で、テレクサイ感じでした。
疎開前に母が、葉書の表書き(住所:当時は神戸市神戸区・宛名)をして、私に持たせました。
私が書いた文章はいつも同じで「お父さん、お母さん、お元気ですか、僕も元気です・・・」「帰りたい、逢いに来て欲しい」は書けませんでした。
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