志方町をゆく(116) 細工所(16) 厳しい生活でした
村に古文書等が残されておれば、村の歴史は比較的容易に再現することができます。
志方町に関しては、古文書類が残されている村は非常に少ないようです。
『志方町誌』も「・・・(古文書類は)わずかに岡・東飯坂・行常・東中・山中・助永・西山を数えるだけである・・・」と記しています。
細工所も古文書類は今のところは少なく、ほとんど所在が分かりません。
そのため、細工所の歴史も十分な紹介ができないまま、終わりそうです。
『加古川市史(第二巻)』に、「一橋藩徳川氏領明細帳」として、細工所の明細帳が紹介されていますから、紹介しましょう。
先に紹介したように、東志方の9ヶ村(大沢・行常・細工所・野尻新・岡・柏尾・吉弘・高畑・大宗の各村)は、相模小田原藩の領土でしたが、延享4年(1747)から一橋領に組み込まれ幕末まで天領として続きました。
従って、「一橋藩徳川氏領明細帳」は、延享4年以降の数字です。
〈細工所の明細帳から〉
戸数 116軒、村高約520石の村
村高 520石289合 41町101畝4.5歩
除地 3ヵ所42.3畝
人口 532人
牛 25疋
鉄砲 1挺
小物成(雑税) 金納
酒造株 1 酒造米高300石 冥加銀(その税金)が40匁5分
百姓持林 3ヵ所 752畝
余業 男 薪取り・草刈・縄俵こしらえ
女 木綿織
津出し 芝村まで2里・・加古川川下げ3里半・・高砂・・船出し
細工所は、村高(米の収穫)が520石289合の村です。
戸数が116軒ですから一軒当たり約4石845合となります。
ここから年貢が引かれたのですから、絶望的な生活ということになります。牛の数は25疋ですから、少なく4.64軒に一疋です。
これらの数字だけが生活の糧ではないのでしょうが、とにかく苦しい農民の姿が浮かんできます。
そのため、農業の合間には男は薪取り・草刈・縄俵こしらえに励み、女は木綿織に精を出したことが明細帳から知ることができます。