ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

志方町をゆく(119) 野尻(新田)(2) 玉田正信(修斎)

2023-06-06 09:16:51 | 加古川市歴史探訪 志方町編

 

    志方町をゆく(119) 野尻新田(2) 玉田正信(修斎)

 野尻新田は、玉田正信(修斉・しゅうさい)が、正保二年(1645)に姫路は藩主・松平忠弘の命を受け開墾に取りかかりました。

 *玉田正信を「修斉」とします。

      玉田修斉 

 (野尻新田)の基礎を築いた人は玉田修斉で、18年の歳月を費やして開拓しました。

 元和六年(1620)三月五日、直義の長男として細工所に生まれました。

 玉田家は、もともと赤松氏の一族で、正信の祖父・正之が永禄年間(155869)に飾西郡置塩庄玉田村から細工所に来て、医を業として、かたわら農業を営み、すでにその頃から大庄屋を務めていた名門でしでした。

 彼が父に代って大庄屋の庄屋の職についたのは寛永の末ですから、その時には祖父はもう他界していました。

 祖父が没したのは寛永六年(1629)で、修斉の10才の時に当たります。

 おそらく、父は体が弱く、また修斉がその職に耐えるだけの器量があったからでしょう。

 22・3才の時、細工所で大庄屋を継いでいます。

 正保二年(1645)、正信26才の時、姫路藩主松平忠弘から野尻の開拓の命がくだりました。

       修斉、野尻に眠る

 開墾当時は、野尻新村は10町歩ばかりの村であったといわれています。

 修斉は元禄5年、野尻新村に小さな家を建て隠居しました。

 そして、同12年、79才の生涯を野尻新田で閉じました。

 まさに、野尻の開拓にささげた生涯でした。

 彼は、野尻に儒者・黙翁(もくおう)とともに眠っています。

 黙翁については後日紹介しましょう。

 *玉田正信(修斉)の位牌(細工所・安楽寺で祀られています)

 なお、位牌の左の名前「栗」は、志方町竹中弥左衛門の娘で正信の妻です。彼に先立つ1年前(元禄11)に没しています。

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