ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

志方町をゆく(128) 横大路(3) 学童疎開(1) 学童疎開追想(集)

2023-06-15 06:48:46 | 加古川市歴史探訪 志方町編

        志方町をゆく(128) 横大路(3)

       学童疎開(1) 学童疎開追想(集)

  学童疎開(がくどうそかい)は、第2次世界大戦末期の日本で、アメリカ軍の空襲などによる被害をさけるためおこなわれた大都市の小学校(当時は国民学校)児童の農村部への移住政策です。

 1943年(昭和18)末から親戚などをたよる縁故疎開がはじまり、44年(昭和19)6月に学童疎開促進要綱を政府は決定し、半強制的な集団疎開となりました。

 このとき対象となった都市は、東京都区部・横浜・川崎・大阪・神戸・名古屋など13都市で、対象児童は初等科3~6年生でした。

 1945年(昭和20)3月からはさらに疎開政策が徹底化され、1、2年の児童もふくむ全員疎開が目標になりました。

 敗戦までに集団疎開した児童は約45万人に達したといいます。

 疎開先は主に農村部の寺院などで、こうした集団生活では、食糧難や親元をはなれた生活な不安、農村との生活習慣の違いなどでいろいろな混乱や悲劇がおきました。

 最終的に都市への引き揚げがおわったのは敗戦の3カ月後の1945年(昭和20)11月でした。

       志方(横大路)への学童疎開

 志方町の散策をしていた時、神戸の児童が志方町(横大路)への学童疎開があったことを知りました。

 かつての「疎開児童」は、平成6年(1994)年10月、疎開先の妙正寺(志方町横大路)等を訪問し「同窓会」をされています。

 その後、当時の体験を「学童疎開追想」と題した文集にまとめられました。

 (文集)『学童疎開の追想』の一部を読んでみましょう。

 *写真:文集『学童疎開追想』(神戸小学校学童疎開追想編集委員会)

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志方町をゆく(127) 横大路(2) 八紘一宇(はっこういちう)の碑

2023-06-14 06:14:52 | 加古川市歴史探訪 志方町編

     志方町をゆく(127) 横大路(2)

      八紘一宇(はっこういちう)の碑

 八紘一宇の塔は、加古川市西神吉町辻から志方への抜ける峠の頂上部にあります。

 地図で確か得てみると西神吉町と志方町横大路峠かわかりません。まさに境界線上です。「志方町をゆく」の項に押し込んでおきます。間違っていましたらご指摘ください。

 この塔を見つけた時、「こんな塔が、まだ残されているのか・・・」と奇異に感じました。

 若い人は、この文字すら読めないでしょうね。勿論、意味はわからないでしょう。それでいいのです。

 注釈を加えておきますと、まず「はっこういちう」と読みます。

 意味は、「全世界は天皇(日本国)の下に一つの家なる」という意味で、「八紘」とは四方つまり世界のことで、「宇」は家のことです。

 まさに、日本軍のアジアへの侵略のスローガンでした。

   ・・・略・・・

 最近、若者を中心にプチ・ナショナリズムが勢を強めています。

 『志方郷(第4号)』には、この石碑について次のような記述があります。

 「・・・・私(投稿者)にとっては、昭和20年2月末、海軍に入隊する時、石碑の前で横大路の沢山のお見送りの方々に決別の挨拶をした生涯忘れることのできない場所である。・・・

 旧西志方村から出征していった父や祖父が家族の見送りの方々と決別した場所であることを知ってほしい・・・」と。

 

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志方町をゆく(126) 横大路(1) 志方町横大路を歩きます

2023-06-13 08:41:33 | 加古川市歴史探訪 志方町編

     志方町をゆく(126) 横大路(1) 志方町横大路を歩きます

 いつの間にか「志方町をゆく」126号になってしまいました。

 少し、疲れたでしょう。

 次号から少し話題と時代を変えて横大路を歩きます。

      私のこと

 起床は普通は7時ごろです。特に決めたわけではないのですが、ゴミの収集(週2回)が8時頃ですから、起床は7時ごろに定着しています。

 ゴミ出しのない日も小さな庭の椅子にしばらくデンと腰をおろし、コーヒーを飲みます。もちろんインスタントコーヒーですが旨いです。

 そして、普段はあまり面倒を見ないのですが植物たちをしばらく見ています。

 毎日ですからあまり分かりませんが、植物たちは確実に成長してます。いま、皇帝ダリアの成長がすごい勢いです。

 先日まで真っ赤に咲いていたアマリリスの一本が枯れました。

 アジサイが見事な青い色に変わってきました。

 みんな時間の中での法則です。

 私は、今月で80歳になります。いつの間にか80歳になります。複雑な気持ちですが、確実です。ずいぶん長くはびこっていたものです。

 庭を見ていると、「ふっ」とそんな気持ちになることがあります。

 でも、最近は「時間に抵抗しなければ・・・」とも居直っています。

 今日は少し、けだるいです。ヘンな文で申し訳ありません。

 志方町も長い時間の中でそれぞれの時間を重ねてきました。次回から西志方の横大路を歩いてみます。

 横大路は「私の生まれたらしい・・・」。私にとって特別な集落です。

 *写真:横大路のルピナス畑のルピナスと孫(小1のころ:現在中3



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志方町をゆく(125) 細工所(21) 電灯がついた

2023-06-12 08:14:23 | 加古川市歴史探訪 志方町編

 

    志方町をゆく(125) 細工所(21) 電灯がついた

 少し楽しい話をしましょう。

 東志方村からの通達文(大正6年)がありました。東志方の各に電灯がつくという通達文です。

 東志方村の場合、大正2年の2月に村へ電灯の話があり、各村々の工事の順番が決まり、電灯工事が始まりました。

 ランプによるそれまでの生活から電灯に変わり、気持ちも一気に明るくなったことでしょうね。

      電灯工事始まる

  大正六年二月七日(の通達文)

                 東志方村長 沼田一良

 電灯の件に付き、至急御協議申上度候間、明八日午後一時御出席相成度候也

 追て、御差支有之候はば、代理人出席せしめられ度、申添候

 *通達文:『大正六年度・書類綴込帳・細工所村』より

 読みにくい通達文(お知らせ)ですが、内容は電灯がつきますよ」という東志方の町役場からのお知らせです。当時の大ニュースだったでしょう。



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志方町をゆく(124) 細工所(20) 伊能忠敬測量隊、加西道をゆく!

2023-06-11 07:16:41 | 加古川市歴史探訪 志方町編

    志方町をゆく(124) 細工所(20) 

               伊能忠敬測量隊、加西道をゆく!

 文化八年(1811)3月5日(旧暦)、伊能忠敬の測量隊(別働隊)が細工所を測量しました。

 もちろん、正確な日本地図の作成のためです。

 まず、図で加西の坂本をお探しください。

 測量隊は法華山のある坂本から二手に分かれ一隊は社から立杭方面の測量をしています。

 そして、別働隊が三口から南下して、志方細工所方面の調査をしました。

 この日は、晴天であったようです。

       伊能忠敬測量隊(別働隊)、昼食は、吉広(現:広尾西)の庄屋宅で

 その測量の様子を『加古川市史(二巻)』に見てみます。

 「・・・伊能の測量は、主な街道の距離の測量をするかのように見えるが、正確な地図を作成するには実はそれよりも大切なのは、主な山・島で方位を測量すること、夜間に宿泊で行う天測によってその地点の緯度を算定することにあった。

 ・・・・・(測量隊一行は)文化八年(1811)には法華山一乗寺のある坂本村の庄屋宅・百姓家に宿泊し、別働隊は三口から高砂道を南下して、大沢・細工所・同村安楽寺門前を通り、岡村字田中・下条・中才を通り、吉広・柏尾(以上志方町)・一本松新・小畑・西山・山角(以上加古川市平荘町)・小野・薬栗・見土呂を通り、滝野川(加古川のこと)を渡って国包(以上加古川市上荘町)にいたる。・・・」

 日記によると春なお遠い3月5日(旧暦、現2)、伊能忠敬の測量隊一行は安楽寺(細工所)門前から加西道へ入り、その日の昼食は吉広村(現:広尾西)の庄屋宅でとっています。

 測量隊のたどった細工所から平荘の芝村(現:養老村)の河岸(かし・川の港)までの加西道は地図をご覧ください。

 芝村の河岸を起点としたこの道は、細工所で北条街道とつながる4.1㎞の道でした。

  *図:伊能忠敬の地図(播磨部分)・・・赤い線が伊能測量隊の測量した行程

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志方町をゆく(123) 細工所(19) 仁寿山校教授・村田継儒のこと

2023-06-10 05:51:48 | 加古川市歴史探訪 志方町編

       志方町をゆく(123) 細工所(19) 仁寿山校教授・村田継儒のこと

 先に紹介したように綿布の専売制度により姫路藩は、莫大な藩の借金を返済することができました。

 これはすべて河合寸翁の経済政策のおかげでした。

 しかし、寸翁は、藩・日本の将来のために学問の大切さを痛感していました。

 そのため、彼は藩学である好古堂学問所に協力するかたわら、理想とする学問所・仁寿山校(じんじゅさんこう)を開きました。

 藩校・古好堂と異なり教師も自由な校風でした。

 幕末の動乱期には鎖国の日本であっても国際情勢は伝ってきました。

 特に、仁寿山校の学生は国際的な知識を持ち、自分の取るべき方向を見定めていたようです。

 教授陣も多彩で、頼山陽・合田麗沢・林述斉・大国隆正、そして村田継儒等がいました。

 その中にあって村田継儒は折中派のようでしたが、教授陣の中には勤王思想を説く者も多くいました。

 その教えを受け、佐幕派の代表的である姫路藩にあって、勤王・倒幕の思想を持つ人々が育ち、あるいは実行動に出た人も登場しました。

 寸翁は、ある時村田継儒に「次なる時代を思い続けることは、その時代を生きる者を信じることなのだろう・・・」と問いかけたことがありました。

 寸翁は村田をよほど信頼していたようです。

       玉田家と村田継儒

 玉田家と村田継儒の関係を付け加えておきます。

 いま、明治四年の細工所の戸籍簿で、最後の大庄屋の玉田謙蔵の戸籍を見ています。

  地主

  庄屋

  戸長   玉田謙蔵 四十八歳

       母 いし 六十九歳

       妻 津る 三十八歳

 そして、母「いし」の上に、次のような添え書きがありあます。

   播州姫路藩村田継儒娘

   文政二卯年三月亡父重太夫為入嫁

 つまり、謙蔵の母は仁寿山校の教授・村田継儒の娘でした。

 そして、妻の「津る」も村田家から入籍しています。

 玉田家と村田家は、強いつながりのある親戚関係のようです。

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志方町をゆく(122) 細工所(18) 水争い:解決は村どうしの話し合いで

2023-06-09 07:22:56 | 加古川市歴史探訪 志方町編

    〈お詫び〉

 年代を追って、すっきりした志方町の歴史を追いかけたいのですが、うまく整理ができていません。行きつ戻りつの報告になりますが、ご了承ください。再度「細工所」に戻ってきました。

     志方町をゆく(122) 細工所(18)

       水争い:解決は村どうしの話し合いで

 寛政六年(1794)に七つ池の水をめぐって争論がおきました。

 一橋徳川氏領地である細工所・高畑・岡三ヵ所の立ち会いのこの池の水の配分は、細工所四歩、高畑四歩、岡二歩とされていました。

 この時の干ばつに高畑村が細工所村を相手取って、用水の引き方が不相当だとして訴えでました。

 その結果は次のように決着しました。。

① 旱魃の時は、村々役人が相談すること。

② 用水が平等に行き渡るように取り計らうこと。

③ 何事につけ三ヵ村が相談し、評議して定めること。

 と、バシッとした解決ではありません。

 寛政八年(1796)・細工所村と高畑村との間で、用水の配分について解釈に食い違いがあり再び論争となりました。

 「高畑村は、細工所村がたくさんの水をとっている」というのです。

 吉広村(現:広尾村)の宗左衛門らが仲介を勤め、「・・・従来の慣行を守り、双方の村役人、水役の者が立ち会って平等に用水が行き渡るようにとりはからうこと」が決められました。

     水争いの解決は「内済」で

 水争いで、新しい水利秩序ができあがると、その運営に藩は原則的には介入しませんでした。

 基本的には「自らの用水は、自らの力で守り、問題は知恵を出しあって解決しなさい」という、なんとも頼りない方針をとりました。

 幕府・藩が新しい水利秩序をその後も指導をするとなると膨大な事務になるし、また間違った判断をした場合、農民の不満を藩が背負うことになります。

 それに何よりも、当事者の納得の解決が一番良い解決方法であることを藩はよく知っていました。とはいうものの、用水の争いはしばしば発生しました。

 問題のおきた集落間で解決できたわけではありませんが、水慣行の争論は、原則として集落間で解決することが求められました。



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志方町をゆく(121) 野尻(新田)(4) 野尻古墳群

2023-06-08 08:43:41 | 加古川市歴史探訪 志方町編

 

    志方町をゆく(121) 野尻新田(4) 野尻古墳群

  野尻古墳群は県道小野志方線で細工所から小野方面への野尻集落が途切れる手前にあります。

 道から、比較的大きな説明板が目につきますので、すぐ探すことができます。(*野尻1号墳は説明板に向かってすぐ左です)

       野尻古墳群

 野尻古墳群は志方町北東端に位置し、南を城山、北を周遍寺山にはさまれた細長い谷間に築かれた群集墳です。

 かつて、5基以上あったといわれていますが、現在では3其が残っています。

 野尻1号墳は、墳丘の一部が削り取られていますが、全体によく残っています。

       野尻1号墳

 野尻1号墳は横穴式石室であり5世紀以後の古墳です。ここでは、後期古墳(6世紀)古墳としておきます。

 入口が竹で覆われて場所を覆い隠していました。

 やっと、竹の向こうに入り口を見つけました。竹を押し倒し、やっとのことで石室に入ることができました。

 想像していたよりも立派な石室です。

       野尻の古代人は農業もはじめていた

 こんな立派な古墳を造ったのは、もちろん古代の野尻の支配者でしょう。

 支配者は、少なくても数十戸の人々を支配していたことでしょう。

 つまり、500年代の野尻は多数の人々の活躍した場所だったようです。

 野尻は、周辺の山からの水が低地部に水が集まる地形です。そこに集落をつくり野尻の古代人は農業生産もしていたようです。

 古代人の生活の跡は、長い時間の中で水に削られ、土砂が積もり、現在それらを知ることはできません。

 *写真:野尻古墳群

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志方町をゆく(120) 野尻(新田)(3) 玉田黙翁(もくおう)

2023-06-07 06:48:43 | 加古川市歴史探訪 志方町編

      志方町をゆく(120) 野尻新田(3) 玉田黙翁(もくおう)

 黙翁は、野尻(志方町野尻)に生まれた江戸時代の高名な儒者です。

 玉田家は、代々医を業としており祖父、父(柔庵)も医者でした。

 黙翁は、医者としてだけではなく、学問の道を究めました。

 そして、野尻で塾(虎渓精舎・こけいしょうじゃ)を開き、多数の門弟を指導しました。

 今もその跡が、野尻の虎ヶ谷の黙翁の墓のそばに残っています。黙翁は、ほとんど虎ヶ谷の地を離れることなく門弟を指導しました。

 黙翁のことを知った小田原藩主は、彼を江戸に招いています。

 二度ばかり、江戸に行ったのですが、二度とも一年で帰郷しています。

 門弟には、姫路藩の儒者など多数がいました。

 黙翁は、天明五年(1785)75才で没しました。

 黙翁は、元禄10年(1697)野尻新田に生まれ、号を虎渓庵・敵山・黙翁としています。

       陶淵明に私淑

 彼は、陶淵明(とうえんめい)の生活にあこがれを持ち学問にはげみました。

 彼の生活は、まさに陶淵明と重ね合わせることができます。

 父が亡くなった時、黙翁はすでに46才であったので、それまでに父の庇護のもとで十分学問に打ち込み、才能を伸ばすことができたと思われます。

 彼は儒学・文学だけでなく医学にも詳しく、弓馬剣術、村の経営にも通じていたといわれています。

       虎 渓 精 舎

 野尻の玉田家の墓地の入り口のところに、学問所「虎渓精舎(こけいしょうじゃ)跡」があります。

 虎渓精舎は、祖父・修斉が書斎として建てたもので、父もこの部屋を書斎とし、時には講義の場としていたようです。

 黙翁は、修斉の墓を守り、この清閑な地で隠棲して、一切の名誉を望まず、孤高の生活を楽しみました。

 そこでは、まさに陶淵明にあこがれた黙翁の生活でした。

     <蛇足> 

 陶淵明の有名な詩「歳月人を待たず」の最後の部分を載せておきましょう。国語の授業を懐かしく思い出してください。

   ◇歳月人を待たず◇    陶淵明

  ・・・・

  盛年不重来  盛年(せいねん) 重ねて来らず

  一日難再晨  一日 再び晨(あした)なり難し

  及時当勉励  時に及んで当(まさ)に勉励すべし

  歳月不人待  歳月 人を待たず

 *写真:黙翁墓標(野尻)





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志方町をゆく(119) 野尻(新田)(2) 玉田正信(修斎)

2023-06-06 09:16:51 | 加古川市歴史探訪 志方町編

 

    志方町をゆく(119) 野尻新田(2) 玉田正信(修斎)

 野尻新田は、玉田正信(修斉・しゅうさい)が、正保二年(1645)に姫路は藩主・松平忠弘の命を受け開墾に取りかかりました。

 *玉田正信を「修斉」とします。

      玉田修斉 

 (野尻新田)の基礎を築いた人は玉田修斉で、18年の歳月を費やして開拓しました。

 元和六年(1620)三月五日、直義の長男として細工所に生まれました。

 玉田家は、もともと赤松氏の一族で、正信の祖父・正之が永禄年間(155869)に飾西郡置塩庄玉田村から細工所に来て、医を業として、かたわら農業を営み、すでにその頃から大庄屋を務めていた名門でしでした。

 彼が父に代って大庄屋の庄屋の職についたのは寛永の末ですから、その時には祖父はもう他界していました。

 祖父が没したのは寛永六年(1629)で、修斉の10才の時に当たります。

 おそらく、父は体が弱く、また修斉がその職に耐えるだけの器量があったからでしょう。

 22・3才の時、細工所で大庄屋を継いでいます。

 正保二年(1645)、正信26才の時、姫路藩主松平忠弘から野尻の開拓の命がくだりました。

       修斉、野尻に眠る

 開墾当時は、野尻新村は10町歩ばかりの村であったといわれています。

 修斉は元禄5年、野尻新村に小さな家を建て隠居しました。

 そして、同12年、79才の生涯を野尻新田で閉じました。

 まさに、野尻の開拓にささげた生涯でした。

 彼は、野尻に儒者・黙翁(もくおう)とともに眠っています。

 黙翁については後日紹介しましょう。

 *玉田正信(修斉)の位牌(細工所・安楽寺で祀られています)

 なお、位牌の左の名前「栗」は、志方町竹中弥左衛門の娘で正信の妻です。彼に先立つ1年前(元禄11)に没しています。

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志方町をゆく(118) 野尻(新田)(1) 玉田姓

2023-06-05 08:19:20 | 加古川市歴史探訪 志方町編

   

     志方町をゆく(118) 野尻(新田)(1) 玉田姓

 七つ池から野尻(東志方)へ散策をしました。

 途中でお会いした野尻集落のSさんとしばらくお話をさせていただきました。

 「私はSですが、この村は玉田姓が多いです」との話から始まりました。楽しい時間でした。

       玉田姓が約8割

 野尻は、はじめ野尻新田といい、後に野尻新村そして、野尻と呼ばれるようになりました。

 玉田修斉(しゅうさい)が、正保二年(1645)に姫路は藩主・松平忠弘の命を受け開墾に取りかかりました。

 野尻(新村)は、寛文二年(1662)までの18年間をかけ開墾した村です。

 修斉は、細工所玉田家の祖・玉田正之の孫にあたります。

 寛永の末に父に代わり大庄屋となり、この開墾の命を受けたのは26才の時でした。

 野尻の開墾を助けたのは叔父で、修斉の妻の於栗(おくり)は人望のある人で、18年間の大事業も叔父と妻の協力が多かったといわれています。

 開墾当時は、10町歩ばかりであったといわれていますが、明治10年(1878)田畑・宅地合わせて30町歩の村となっています。

 現在、35軒のうち玉田家が26軒で、坂田5軒・井上4軒はみな修斉の一族または修斉の開拓を助けた一族であったといわれています。

 久保田姓が3軒ばかりありますが、久保田家は細工所はなく、現在の広尾からこの地の移り住んだ人たちです。



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志方町をゆく(117) 細工所(17) 大庄屋・玉田家   

2023-06-04 07:26:27 | 加古川市歴史探訪 志方町編

       志方町をゆく(117) 細工所(17) 大庄屋・玉田家

     正之、玉田姓を名のる

  細工所は、玉田家が大庄屋を務めました。

 細工所大庄屋玉田家について『志方町誌』の記述をお借りします。

 (*文体を変え、一部加筆しています)

 ・・・・

 玉田家は赤松の出で、正之はその妻・阿江(あえ)氏の縁により一時飾磨郡玉田村に移り、その後永禄年間(15581569)に細工所へ来たために姓を玉田に改めました。

 ・・・略・・・・

     細工所組大庄屋・玉田家

 正之の長男・正次は元和元年に父の業を継いで大庄屋となりましたが、病のため弟の直義に譲りました。

 そして、その長男正信(修斉)に大庄屋を譲っています。

 この正信が野尻新村の開発に当たり、細工所の経営は後に弟の成紹に譲っています。

 一方、正信の三男・定好は、細工所で別に玉田家を起こし、その後玉田家は、代々重太郎を称し、明治維新まで大庄屋を務めました。

 玉田家による野尻村開拓については、次号で紹介しましょう。

 明治時代になり、明治23年の新町村制発布と共に玉田家の範威は東志方村の初代の村長として明治31年9月20日、44才で没するまで在職しました。

 現在、大庄屋を務め、そして明治時代初代東志方村の村長を務めた範威へと続いた玉田家は細工所では続いていません。

 *写真:玉田定好の墓標

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志方町をゆく(116) 細工所(16) 厳しい生活でした

2023-06-03 07:53:18 | 加古川市歴史探訪 志方町編

 

      志方町をゆく(116) 細工所(16) 厳しい生活でした

 村に古文書等が残されておれば、村の歴史は比較的容易に再現することができます。

 志方町に関しては、古文書類が残されている村は非常に少ないようです。

 『志方町誌』も「・・・(古文書類は)わずかに岡・東飯坂・行常・東中・山中・助永・西山を数えるだけである・・・」と記しています。

 細工所も古文書類は今のところは少なく、ほとんど所在が分かりません。

 そのため、細工所の歴史も十分な紹介ができないまま、終わりそうです。

 『加古川市史(第二巻)』に、「一橋藩徳川氏領明細帳」として、細工所の明細帳が紹介されていますから、紹介しましょう。

 先に紹介したように、東志方の9ヶ村(大沢・行常・細工所・野尻新・岡・柏尾・吉弘・高畑・大宗の各村)は、相模小田原藩の領土でしたが、延享4年(1747)から一橋領に組み込まれ幕末まで天領として続きました。

 従って、「一橋藩徳川氏領明細帳」は、延享4年以降の数字です。

     〈細工所の明細帳から〉

   戸数 116軒、村高約520石の村

   村高 520石289合  41町101畝4.5歩 

   除地 3ヵ所42.3畝

   人口 532人

   牛  25疋

   鉄砲 1挺

   小物成(雑税)  金納

   酒造株 1 酒造米高300石 冥加銀(その税金)が40匁5分

   百姓持林 3ヵ所 752畝

   余業 男 薪取り・草刈・縄俵こしらえ 

       女 木綿織

   津出し  芝村まで2里・・加古川川下げ3里半・・高砂・・船出し



 細工所は、村高(米の収穫)が520石289合の村です。

 戸数が116軒ですから一軒当たり約4石845合となります。

 ここから年貢が引かれたのですから、絶望的な生活ということになります。牛の数は25疋ですから、少なく4.64軒に一疋です。

 これらの数字だけが生活の糧ではないのでしょうが、とにかく苦しい農民の姿が浮かんできます。

 そのため、農業の合間には男は薪取り・草刈・縄俵こしらえに励み、女は木綿織に精を出したことが明細帳から知ることができます。



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志方町をゆく(115) 細工所(15) 安楽絵の十王像と地獄絵

2023-06-02 08:08:50 | 加古川市歴史探訪 志方町編

            志方町をゆく(115) 細工所(15) 安楽絵の十王像と地獄絵

 安楽寺(細工所)の西の門から入ると鐘つき堂があり、その傍に「十王堂」があります。

 十王堂には、「地獄極楽絵」が描かれ、「十王像」が安置されています。

 この十王堂は、天明四年(1784)岡村に生まれた学者であり、経世家の上野虎山の寄進によるものです。

 彼は法華山谷川を改修した人物としても知られています。

 地獄絵図は、右から地獄で苦しめられている人々で、中ほどに救いの手を差しのべている地蔵菩薩、そして、帳簿を見ながら判決を言い渡している「閻魔(えんま)さん」、そしてその左に極楽の絵と続きます。

         十王信仰について

 十王とは、死者の生前の罪を裁くために姿を変えている仏たちです。

 仏教では死者の生前の行いを裁く仏は「閻魔さん」だけではありません。

 死者の前に十人の仏様が現れて、各仏様の前で審判を受けます。

 その裁判の日は、初七日にはじまって、二十七日、三十七日、四十七日、五十七日、六十七日、七十七日、百ヵ日、一周年、三周年の十回といいます。

 そのうち、五十七日目の裁判官が「閻魔さん」です。

 近世の仏教観を知ることのできる貴重な仏たちと絵画です。お参りの時はお寺にお願いして、十王堂へお寄りしてはいかがでしょう。

 *写真:十王堂内の十王と地獄絵



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志方町をゆく(114) 細工所(14) 志方東公園

2023-06-01 05:55:23 | 加古川市歴史探訪 志方町編

      志方町をゆく(114) 細工所(14) 志方東公園

 志方東公園は細工所から野尻に抜ける城山と七つ池に挟まれた所にある公園です。

 吹く風の気持ちよい静かな公園です。

 子供たちはアスレチックが楽しめます。

 志方東公園には野球場もテニス場もあり、野球場には照明灯も備えられています。

 そして、バードウォッチングもできる公園です。

 メジロ・ホオジロ・ウグイスなどがエサを啄むのを観察できますよ。

       志方東公園・昭和59年5月に開園

 志方東公園は、昭和54年加古川市と合併の頃に計画され、昭和59年5月1日に開園されました。

 最近は「まち懇」の人たちの努力で桜が植樹され、桜の名所ともなっています。

 また、このあたりは市内で唯一の「ギフ蝶」の生息地となっており、「ギフ蝶」との出会いがあるかもしれません。

 休みの日にはドコモと、過ごしたくなる公園です。

 公園の周辺の山は、スッカリ初夏の緑につつまれています。

 *写真:志方公園の桜(4月撮影)

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