志方町をゆく(118) 野尻(新田)(1) 玉田姓
七つ池から野尻(東志方)へ散策をしました。
途中でお会いした野尻集落のSさんとしばらくお話をさせていただきました。
「私はSですが、この村は玉田姓が多いです」との話から始まりました。楽しい時間でした。
玉田姓が約8割
野尻は、はじめ野尻新田といい、後に野尻新村そして、野尻と呼ばれるようになりました。
玉田修斉(しゅうさい)が、正保二年(1645)に姫路は藩主・松平忠弘の命を受け開墾に取りかかりました。
野尻(新村)は、寛文二年(1662)までの18年間をかけ開墾した村です。
修斉は、細工所玉田家の祖・玉田正之の孫にあたります。
寛永の末に父に代わり大庄屋となり、この開墾の命を受けたのは26才の時でした。
野尻の開墾を助けたのは叔父で、修斉の妻の於栗(おくり)は人望のある人で、18年間の大事業も叔父と妻の協力が多かったといわれています。
開墾当時は、10町歩ばかりであったといわれていますが、明治10年(1878)田畑・宅地合わせて30町歩の村となっています。
現在、35軒のうち玉田家が26軒で、坂田5軒・井上4軒はみな修斉の一族または修斉の開拓を助けた一族であったといわれています。
久保田姓が3軒ばかりありますが、久保田家は細工所はなく、現在の広尾からこの地の移り住んだ人たちです。