志方町をゆく(133) 横大路(8) 集団疎開(6)
待ち遠しかった炊事当番
〈東中弘吉〉
つらかった疎開の生活の中にも楽しい日が平等に順番に廻ってくるしかけになっていました。炊事当番の日です。
その日は、当番の生徒は朝から顔が生き生きしていました。
当時給食の食器はすり鉢型の素焼きの丼鉢で、もちろんご飯は盛り切り飯でした。
ところが何故かこのすり鉢型の丼が総学童数より八つ程不足しており、その不足分だけ学童が持って来た丸みのある、見るからに大きな丼鉢が使用されました。
これらは、すり鉢型のものより約三割多く入り、中でも紺色で松の絵が焼付けられたジャンボ丼は五割近くも多く入ったと思います。
食事で公会堂へ入るとその日の炊事当番が誰であるか一目瞭然でした。
丼鉢についての珍現象
大型の丼鉢は、確か炊事当番の人数より二、三個余分にあり、それが誰の席に置かれているかが、当時の私達の小さな社会関係を現わしていました。
その日の炊事当番と仲の良い友人の席、ボス的存在の生徒の席、勉強の良く出来る指導者の席等、恩を売ったり返したり、管理したり管理されたり、丼の位置一つで、当時の年若い我々のインフォーマルな子供社会の一面を知ることができました。
田中様ありがとうございました
食物の点で私にとってもっと有難い裏話がありました。
さきに触れた民浴(みんよく)です。二人一組で民家に貰い風呂に行きましたが。私は、三年生の五十嵐君とペアになりました。
隔日に公会堂の裏手の田中様宅へ出かけました。
このご家庭は遺族家族で、おばあさんと、戦争未亡人、二年生の真之君の三人家族でした。
私が五十嵐君と二人で入浴している間に必ず食事か軽食の準備をして下さり、入浴後にご馳走になりました。
食べ残りがあれば、餅、芋、豆などは紙袋に入れてお土産として持たせて下さいました。
同じように民浴に行った友人の中には、疎開の子と白眼視され、入浴も遠慮勝ちであった者も少くありませんでした。
それを思うと、私と五十嵐君とは実に恵まれていて、よい家庭に配属されたものでした。(以下略)
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