日守麟伍の和歌(うた)日記 Ringo Himori's Diary of Japanese Poetry

大和言葉の言霊の響きを求めて Quest for the sonancy of Japanese word

『歌物語 花の風』決定版(連続掲載)2章

2011年02月28日 | 日記
二の巻、戯れ

あるとき女が、「暇な時に読んでください」と言って、書き留めた文章を置いて帰った。男は数日後、「読んでくれと言われたのだから」と自分に言い聞かせ、人の日記をのぞくような後ろめたさを感じながら、女の文書を読んだ。男は切なかった。
感想のついでに、男はこれまでに詠んだ和歌から、数首を女に書き送った。

数日後、女からは、歌の出来ばえのよさを称える、嬉しそうな書き出しの返信がきたが、途中から急に文章が咎めるような調子に変わって、「このような言葉では、私の心に届きません。まして魂には」と書かれていた。言葉遣いから、数回に分けて書かれたものらしかった。
「喉元に匕首を突きつけられる」という時代がかった言い回しが、男の頭に浮かんだ。女が本気を見せたのは、これが最初だった。

文面には、好意と悪意が交錯していた。

さだめある ふるきみたまと おぼゆれど いとけきいもを いかにかわせん
定めある 古きみ魂と 覚ゆれど 幼き妹を 如何にかはせむ
(私と深い縁のある、古い魂をもった人と思われますが、まだ幼さの残るあなたに、どう接すればいいのでしょうか)

男は何日かかけて、自制した返事を書いた。
 
「歌をお褒めいただき、うれしく思いました。拙い歌、と謙遜すべきところですが、自分でも意外なほど、いい歌が詠めたような気がします。考えられる理由としては、詠みかける相手の魂が優れているからか、あるいは私の前生は、あなたと同様に小さな歌人だったのでしょうか。あなたの魂に届くほどの力がないのは、もともとの才能の限界と、あれこれを遠慮してのことでした。覚悟を伴わない気持ちなど、仄めかすべきでなかったかもしれません。……」

いもこうる おもいいかにか とどかんと わがむらきもの こころおののく
妹恋ふる 思ひ如何にか 届かむと 我がむらきもの 心慄く
(あなたを恋い慕う思いは、どのように届くだろうかと、私の心は慄きます)

 女から返事はこなかった。男は女に正直な気持ちを書き送ったことを、後悔しなかった。自分の思いを燃焼させることが、この出会いの意味だろうと思ったからだった。

よよをへて たぐりあいたる たまのおを またいつのひか みうしのうべき
世々を経て 手繰り合ひたる 魂の緒を またいつの日か 見失ふべき
(長い時間を経て、ようやくあなたという魂にめぐり会いました。この運命の糸は、いつまでもけっして見失うことはありません)

 女はその後も、ときおり親しげに話しかけてくることがあった。

ある日女は、「素敵な曲が入っているから聴いてください」と言って、録音された音楽を置いていった。いつものように寝つけない夜、繰り返し聴いていると、ところどころ心にしみる歌声が、男には女の呟きのように聞こえた。

うたたねに こいしきいもに あいけれど おとないわなし いずちあるらん
うたゝ寝に 恋しき妹に 会ひけれど 訪ひはなし いづちあるらむ
(うとうとした眠りの中の夢で、恋い慕うあなたに会いましたが、醒めてみても、あなたの訪れはありません。あなたは今どこにいるのですか)

いもとわれ なをよびかわす ゆめのあと うつつにあえば はずかしきかな
妹と我れ 名を呼び交はす 夢のあと 現つに会へば 恥づかしきかな
(あなたと名を呼び交わす夢をみたあと、現実の世界であなたと会うと、気恥ずかしい思いがします)

うたたねに かさぬとおぼえし いもがての はだのぬくもり いずくにうせし
うたゝ寝に 重ぬと覚えし 妹が手の 肌の温もり 何処に失せし
(うとうとした眠りの中で、あなたと手を重ねる夢をみましたが、醒めてみると、あなたはどこにいったのか、手のぬくもりだけが残って、姿はどこにもありませんでした)

 男の恋心が当然であるかのように、女は驚くほど普通の様子で接しつづけた。

よをしらぬ おさなきこいに あらざれば かさなるひびに こころすみゆく
世を知らぬ 幼なき恋に あらざれば 重なる日々に 心澄みゆく
(世間知らずの若い恋ではないので、日数が重なると、苦しい思いは薄まって、しみじみとした気持ちが広がってきます)

 職場で担当の交代があり、男は女と会う機会が少なくなった。

いもみざる ひとひのくるる さびしくも かくあいえたる さちやくゆべき
妹見ざる 一日の暮るゝ 寂しくも かく会ひ得たる 幸や悔ゆべき
(あなたと会わない一日が暮れようとしている今、さびしくてなりませんが、こうして会えた喜びを後悔することは、けっしてありません)

 すれ違うときに、会釈を交わすことが、男の折々の楽しみになった。

いずくとも きたりしかたわ あいしらね ゆかなんかたわ つげざらめやも
何処とも 来たりし方は 相知らね 行かなむ方は 告げざらめやも
(互いがどこから来たか、私もあなたも知りませんが、これからどこへ行くかは、かならず告げることにしましょう)

いもまぎて わがよぶこえの とどきなば ちのはてにても いらえてしがな
妹求ぎて 我が呼ぶ声の 届きなば 地の果てにても 答へてしがな
(あなたを呼び求める私の声が聞こえたら、地の果てにおられても、答えてください)

 所用で都会を訪れた帰り、車窓を過ぎる海沿いの町は、そこかしこが女の縁の場所のように見えた。男は女の影を期待しながら、人通りの少ない昼下がりの景色を眺めていた。

みやこじを いまわおりくれば なつかしき あずまのうみわ やわらぎにけり
都路を 今は下り来れば 懐かしき 吾妻の海は 和らぎにけり
(都へ上る道を、今下ってくると、あなたを産み育んだなつかしい吾妻の海は、柔らかい暖かさを湛えて、私を迎えてくれます)

 穏やかな大気の下、生きて動くものはなにも見えなかった。

なつかしき うみにうつろう おもかげを いだくすべなし ひたむきにこう
懐かしき 海に映らふ 面影を 抱くすべなし 直向きに恋ふ
(なつかしい海にあなたの面影を映して、どうしようもなく、あなたを恋しく思っています)

なみしずか かぜしずかなる あずまじの あまつみそらに ひわみちみちて
波静か 風静かなる 吾妻路の 天つみ空に 陽は満ち満ちて
(あなたと出会った吾妻の国は、波も静まり、風も静まり、空は陽の光に満たされています。私は今そこを行き来して、あなたを思っています)

 ある朝早く起き出して、近くの浜辺に出ると、海の向こうに、薄い月影が見えていた。

あさなぎの あずまのうみの まどろみに くもじはるけし ありあけのつき
朝凪ぎの 吾妻の海の まどろみに 雲路遥けし 有明の月
(朝方、波のない吾妻の海に出てみると、空も海もまだ目覚めないように静かで、雲はるかな西の空には、あなたのような月が残っています)

 冬になり、空と海の色は重くなった。

ゆきぐもの きれしかなたの あかねぐも あずまのうみを ふたいろにそむ
雪雲の 切れし彼方の 茜雲 吾妻の海を 二色に染む
(雪雲が切れた彼方に、茜雲があなたのように広がって、灰色の吾妻の海を、ところどころ赤く染めています)

 間遠くなった女との一言二言が、男の単調な日々に、暗号のやり取りのような意味あり気な雰囲気を添えた。

わがまてる ひとわいもにや いもがまてる ひとわたれそや われにあらざるか
我が待てる 人は妹にや 妹が待てる 人は誰そや 我れにあらざるか
(私が待っていた人は、あなたでしょうか。あなたが待っていた人は、誰でしょうか。私ではなかったのですか?)

 ある朝、親しい人間が去ってゆく夢を見て、男は泣きながら目が覚めた。

あいえたる さだめのみたま さかりゆくと ゆめみてのちぞ すさまじかりし
会ひ得たる 定めのみ魂 離り行くと 夢見てのちぞ 凄まじかりし
(定めによって会った魂が、離れ去ってゆく夢をみて、醒めたのち、寂しくてたまりませんでした)

 女と決定的に離れてしまうことを考えると、男はぞっとした。

さかりても またあうべしと おもわずば いもみてのちわ あやめもわかず
離りても また会ふべしと 思はずば 妹見てのちは 文目もわかず 
(別れてもまた会えるだろう、と思わなくては、平静でいられません。あなたに会ってからは)


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『歌物語 花の風』決定版(連続掲載)1章

2011年02月28日 | 日記
歌物語 花の風
[読み仮名・現代語訳付]




                     日守 麟伍 (玉葉舎)


 GOOブログ「日守麟伍の古語短歌茶話」版

外国語が必須となった現代、「日本語が母語でよかった」と、心から思うときがあります。中でも最も大きな感動を呼び起こし得るのが、日本語を母語とする人の心の琴線に触れる、古語短歌の調べです。
遥かな大和言葉の言霊の響きが、あなたの魂に届きますように。

目次
   巻頭歌二首・・・・・・・・・・・03頁
一の巻、始まり・・・・・・・・・04頁
二の巻、戯れ・・・・・・・・・・15頁
三の巻、行き違い・・・・・・・・24頁
四の巻、別れ・・・・・・・・・・33頁
五の巻、憂い・・・・・・・・・・42頁
六の巻、結び・・・・・・・・・・52頁
解説・・・・・・・・・・・・・・61頁

※本書は『妹と我れ』(二〇〇九年二月)、『夢の名残りを弔ふ如く』(二〇〇九年四月)『星に祈りを』(二〇一〇年一月)『花の風』(二〇一〇年四月)と改題して、ウェブ上に発表したもの(まぐまぐマーケット)を、このブログに決定版として、一章ずつアップするものです(二〇一一年二月二八日)。




巻頭歌二首

いもやきく わがこいおれば ことたまの ひびきわしげし あくがるるほど
妹や聞く 我が恋ひをれば 言霊の 響きは繁し 憧るゝほど

たちなめる いわやにそそぐ はなのかぜ ゆめのなごりを とむろうごとく
   立ち並める 石屋に注ぐ 花の風 夢の名残りを 弔ふ如く






一の巻、始まり

ある春の日、男はその女に出会った。
最初の打ち合わせ場所の前に、数人の若い女が立っていた。声が聞こえるくらいの距離になってから、男が「お待たせしました」と声をかけると、中の一人が、意外なほど親しげに「お待ちしてました」と答えた。
この短いやり取りが物語の始まりだった。

美しい立ち居振る舞いを持って生まれた女は、この世にいるのが場違いなほど気高く、年よりも大人びて、周囲の物ごとには半ば無関心だった。

 あるとき女が、「星空を見つめることがあります」と言った。「この人がそんな陳腐な言葉を?」と意外に思って、男は女の表情を見た。女は男を見返して、「宇宙に、導きを祈ります」と言った。

天に祈りを捧げる魂が、一輪の細身の花のように、男の前に立っていた。
男は久しぶりに歌を詠んだ。すると、気恥ずかしいほど通俗的な恋歌が、はじめは滴るように、やがて迸るように綴られてきた。

ちにありて ほしにいのりを かたりつぐ あまつおとめの こえぞかなしき
地にありて 星に祈りを 語り継ぐ 天津乙女の 声ぞ愛しき
(この地上にいて、空に祈りを捧げきた多くの人たちの祈りを、今ここに語り継ぐ、この世のものとも思われないあなたの声が、愛おしく思われます)

 女は古今の智恵の言葉を、正確な知識としては知らなかったが、生まれついての信心のようなもので、理解していた。

かたりつぐ ひじりのことば たえずして かなしきいもの ふみにあらわる
語り継ぐ 聖の言葉 絶えずして 愛しき妹の 文に顕はる
(語り継がれてきた聖人の教えが、愛しいあなたの書く文章、語る言葉の端々に、輝き出ています)

女が智恵の言葉を途切れ途切れに語るのを聞いて、男はいつかどこかで、同じような語りを聞いた気がした。

たまきわる いのちのたぎり まじらいて あとみえざるも いにしえおもおゆ
たまきはる 命のたぎり 交らひて 跡見えざるも 古へ思ほゆ
(ほとばしる命の流れが、どこでどう交わっているのか、軌跡はわかりませんけれども、昔から今に連なる、私たちの縁がしのばれます)

女は、人並み優れた魂を授かり、自分でもそれを知りながら、何をしていいのかわからずにいた。

もろかみの めぐみたまえる いにしえの みたまのふゆを うけしいもわや
諸神の 恵みたまへる 古への みたまのふゆを 受けし妹はや
(あなたはほんとうに、神々の恵みの御霊を、降る星のように受けた、古い魂の持ち主です)

 男と女は、何気ない所作で、互いの価値を見抜いた。

さちみたま うけてあれにし ひとにあれば いもよおんみを いつくしむべし
幸み魂 受けて生れにし 人にあれば 妹よ御身を 愛しむべし
(神々の祝福のみ霊を受けて、この世に生まれてこられた人ですから、あなたはご自分を大事になさらねばなりません)

 男が「周りの人たちが愚かに見えませんか?」と尋ねると、女は苛立ちを抑えたような口調で、自分に宣言するように、「そう思わないようにしています」と答えた。
女は、自分の立ち位置がわからないことから、不機嫌になっていた。

もろひとも いもがよごとを まちぬべし ともにいのりて よをなごめばや
諸人も 妹が寿詞を 待ちぬべし ともに祈りて 世を和めばや
(多くの人が、あなたの祝福の言葉を待っているはずです。一緒に祈って、この世界を平安の世にしたいと思います)

 女は、男の献身に値する魂を持っていた。

いまよりわ いもをうつつの かみとみて こころずくしの うたささげなん
今よりは 妹を現つの 神と見て 心尽くしの 歌捧げなむ
(これからは、あなたを神の化身として、心の底からの思いをこめ、あなたを称える歌を詠みましょう)

 女は聖書をよく読んではいた。あるとき、十字架のネックレスを下げていたので、「クリスチャンですか?」と聞くと、急にあどけなく笑いながら、「これはただのアクセサリーですよ!」と答えた。しかし、物思わしげなときの女は、マグダラのマリアのようだった。

いえすすの みわざをつぐる じゅうじかの ゆうぐれにたつ かしこみてみつ
耶蘇の 御業を告ぐる 十字架の 夕暮れに立つ 畏みて見つ
(イエス・キリストの働きを記念する十字架が、夕暮れの中に立っているのを、厳粛な思いでみながら、あなたを思っています)

よにすぐれ みたまとうとき いもなれば みをやすむべき まくらもあらじ
世に優れ み魂貴き 妹なれば 身を休むべき 枕もあらじ
(この世にいるのが場違いなほど、すぐれた魂であるあなたには、この世の中に心身を休ませるところもないのが、いたわしく思われます)

 ときおりの雑談の中で、女は物心ついてからの自死願望を、死の美化として、生命力の衰弱として、長い人生への不安として、それぞれ区別して理解し、表現し分けた。

死を想像することに親しんできた女は、生と死の境が低かった。

よをすてん おもいありちょう いもがみぞ いよよかなしく おもおゆるかな
世を捨てむ 思ひありてふ 妹が身ぞ いよゝ愛しく 思ほゆるかな
(この世を捨ててしまいたいという、あなたの切ない思いを知って、ますます愛おしく思われてなりません)

 女は、まだ幼い感傷と、長く辛い運命の影のために、押し潰されそうになっていた。

みをすてん おもいいだきて ありしちょう いものかなしび われこそわしれ
身を捨てむ 思ひ抱きて ありしてふ 妹の悲しび 我れこそは知れ
(死にたいという思いを、ずっと持っていたという、あなたの深い悲しさが、私にはよくわかります)

よよつぎて いもがながせし なみだこそ さかゆくときの なごりとならめ
世々継ぎて 妹が流せし 涙こそ 栄行く時の 名残りとならめ
(繰り返される人生で、あなたが流してきた涙は、いつか永遠の幸せの道をひた歩むときの、よい記念になることでしょう)

過去から現れてきたような女が、こうして身近にいる不思議な成り行きに、男の恋心がつのった。男の心は風に吹かれる木の葉のようだった。

ながきよよ まつべきひとを まちわびて いままみゆるわ うつつにやある
永き世々 待つべき人を 待ちわびて 今まみゆるは 現つにやある
(繰り返される人生で、やがて会うべき人を長く待っていましたが、今その人に会ったのは、夢幻なのでしょうか、現実なのでしょうか?)

会えば心が揺らぎ、会っていないときは心が慄き、別れ際にかけられる年上の女のような優しい言葉に、干からびかけた心が融けそうになった。

いもこうわ われからならず さだめありて かくやわまみゆる ゆえしらざるも
妹恋ふは 我れからならず 定めありて かくやはまみゆる 故知らざるも
(あなたを慕わしく思うのは、私がそうしようと思ってのことではありません。何故かは知りませんが、定められた宿命があって、このように出会ったのでしょうか)

何気なく詠み始めた手遊びのような恋歌が、詠まずにはいられない苦しい偲び歌になった。一人では進んで行けない世界だった。

あいえたる えにしいかにや なりゆかん あとさきのよの ちぎりしらばや
会ひ得たる 縁いかにや 成り行かむ 後先の世の 契り知らばや
(ご縁があってお会いしましたが、この後どのように成り行くのでしょうか。過去から未来へつながる、あなたと私の約束を教えてください)

 女は気まぐれというより、能力の振幅が大きいのを、もてあましていた。素直な少女のような表情になったり、人生を歩み終えた老尼僧のような表情になったりした。

不用意に顔を向けると、女は男を正面から見据えていることがあった。

たまふれて こころおどろき みあぐれば いもがまなこに みいられてあり
魂触れて 心驚き 見上ぐれば 妹がまなこに 見入られてあり
(ふとしたときに、何げなく顔をあげると、あなたと視線が合って、私は心の奥底まで見通されたように、はっとしました)

いもこうる おもいわいよよ つのれども ただもだしいて おもをみまもる
妹恋ふる 思ひはいよゝ 募れども ただ黙しゐて 面を見守る
(あなたを恋い慕う思いは、ますます強くなりますが、何もいうことができず、私はただ黙ってあなたを見守っています)

 部屋の前のベランダで煙草を吸っていると、長い廊下を女が向こうから歩いてくるのが見えた。

とおきより ちかずくかげを いもとみて あいおうさちに むねわたかなる
遠きより 近づく影を 妹と見て 相会ふ幸に 胸は高鳴る
(遠くからこちらへ近づいてくる人影が、あなただとわかって、もうすぐ会える喜びに胸が高鳴ります)

 用事を済ませて、部屋を出て行く女の後ろ姿は、美しかった。声をかけそうになる気持ちと、声をかけられない苦しさが募った。

はしきいもの うしろすがたに よびかくる こえにわいでず いろにいずとも
愛しき妹の 後ろ姿に 呼びかくる 声には出でず 色に出づとも
(いとしいあなたが帰って行く後ろ姿に、心のなかで呼びかけます。声には出せませんが、振り向いてください。私の切ない思いは、表情に出ています)

 一人になった部屋で、男は女のことで頭がいっぱいになっていた。

いもやきく わがこいおれば ことたまの ひびきわしげし あくがるるほど
妹や聞く 我が恋ひをれば 言霊の 響きは繁し 憧るゝほど
(あなたには聞こえますか。私の恋の思いは、魂が抜け出すほどで、鬱蒼たる森のような言葉となって広がっていきます)

 女は男の恋心に気付きながら、拒絶するでもなく、応答するでもなく、嫌がるでもなく、喜ぶでもなく、気付かない振りをして、男に接してくれた。

わがこうる おもいをしれる いもにあれば かたらぬこえも ききてありなん
我が恋ふる 思ひを知れる 妹にあれば 語らぬ声も 聞きてありなむ
(私の恋い慕う思いを、あなたは知っているので、声にならない声も、あなたは聞いているにちがいありません)

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