幸せになろうね 改め しあわせだね

日々の生活の中のほんの小さな出来事をどう捉えるかで
私達はすぐにも幸せになれるのです。

もったいない

2013年09月16日 10時53分29秒 | 暮らし
 「もったいない」は確かに大切な感覚だと思います。

米粒ひとつ、縮緬雑魚一匹
そのものに宿っていた命を思い
そのものが自分の前に来るまでの多くの人々のご苦労を思えば
小さな小さなそれらを
けっしておろそかにしてはならないと思うのです。

感謝して感謝して
大切に
一つも無駄にすることなく頂く・・・
そんな心構えで臨みたいと思っています。



 けれど
私たちはこの「もったいない」を
ときどき
大きく勘違いしてしまうようです。


それが高価だったから、
痛んでいないから
まだ使えそうだから
いつか使うかもしれないから、

そういう理由で手放すことができずにいるモノ達が
身の回りにいっぱいたまっているのです。


 でも
そこに、そのモノ達の「命」への思いやりはあるのでしょうか。

モノは「使われてこそ」「生きる」
それを忘れてはいないでしょうか。

かつて
「断捨離」(やましたひでこ著)を読んだとき
強く心に残ったことがあります。

 

 箪笥や押し入れの奥深くしまいこまれ
ここしばらく〝使われていないモノ達″は
たった一度だけ将軍様の気まぐれでお手付きになり
その後、お渡りもないまま忘れ去られている大奥の側室と同じだ
という言葉でした。

今日はあるか、明日こそあるか、と
毎日毎日、将軍様を待つ。
けれど、二度とお渡りはなく、さりとて大奥を出ることも許されない。
悲嘆に暮れて一生を終えていく。

外に出してもらえれば
その娘なりの幸せも手にできたものを、
将軍様に見初められたばかりに
一生淋しい人生を送らねばならない。

そういう意味のことが書かれていました。


 しまいこんだモノは大奥の側室と同じ。

可哀そうな娘たち。

可哀そうな大奥の側室たち。

解放してあげなければ、と思います。

自分の「慾」で
モノ達の愛されるべき一生を奪いたくはありません。


「もったいない」は「モノを愛おしむ気持ち」です。

自分が何かを手放すときの「捨てる後ろめたさへの免罪符」ではないのです。

手元に置くなら毎日たくさん使ってちゃんと愛してあげましょう。
それができないならば
そのものが愛されるであろう場所へ送り出してあげようではありませんか。
どんなに高価だったものも
今、愛せないならば
大奥の忘れられた側室同然なのです。




ほんとうの「もったいない」を意識し
側室を閉じ込めないで暮らしたいと思うこの頃です。

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