幸せになろうね 改め しあわせだね

日々の生活の中のほんの小さな出来事をどう捉えるかで
私達はすぐにも幸せになれるのです。

健康第一?!

2011年07月29日 12時57分43秒 | 
 私の現在の健康状況を知ったある知人が言った。

「石巻へ行ったお疲れが今頃出たんじゃないですか?

 あなたのようにもともとお体の弱い人は
 やはり、自分の身体を第一に考えて行動しなければいけませんね」


彼女は石巻へ行く前にも

「大丈夫ですか?

 もともと、身体がそう丈夫ではないのですから・・・

 かえって迷惑になるということもありますよ」

と、忠告してくれた。



ま、私の身体の弱さを懸念し、
ボランティア先で体調を崩すのではないか心配したのは彼女だけではなかったが。


当の私自身、それを一番心配し
何が何でもそれだけは避けたいと頑張ったのだから。


おかげで、
一週間で根を上げるだろうという皆の思いに反し
私は二週間をあまり苦にすることもなく
むしろ、思ったよりもずっと楽に過ごすことができたのだった。


これは、私を連れて行ってくださった「チーム神戸」の金田さんの配慮によるところが大きく
彼女のおかげで無事務められた様なものなのだが・・・。




 ただ、現地のほとんどの人がそうであったように
私も滞在4、5日目ごろから咳が出始め
結局、肋骨を疲労骨折するほどの咳に悩まされた。

咳だけで、他にはどうということもなかったのだが
もしかしたら、今度の症状の一番の原因である数種類のウィルスは
あの時に体内に入ったのかもしれない。


それが時間の経過とともに増殖し、毒素をだし
神経や筋肉等に悪さをしたのかもしれない。


いずれにしても
私の波動が高く
免疫力が強ければ何の問題もないことである。


それがないゆえに、こうなるのだろう。




 でも、だからといって
自分の身体を守ることを第一に考えねばならないのだろうか。



確かに、健康な身体がなければなにもできない。
健康があってこそいろいろなところにも出かけられるし
人様のお役にも立てるのだろう。

自分の弱さが人様の迷惑になっては何にもならないことは確かだ。

しかし、しかしである!!

自分の健康を守るがために
本当に自分がしたいことや
人様のために何かさせていただくことまで諦めねばならないのだろうか。



 私は生まれつき胃腸が弱く
幼いころから病気がちだった。

あのころと比べれば随分と丈夫になったものの
無理がきかない身体であることに間違いはない。


でも、そんな身体に生まれついたのにも意味があるはずだ。

今生を生きるにあたって、
この身体をわざわざ選んだにはそれなりの理由があるはずだ。

私がなすべきこと、私が学ぶべきことは
この身体においてこそに違いないのだ。



 私は今の病気の原因は「心の冷え」であり
「愛しきれない」ことへのストレスだと思っている。

そして、それらを作り出しているのは
他の誰でもない、この私自身だと思っている。


もし、石巻で病気の要因であるウイルスを拾ってきたにしても
今の私がもっと魂の思いに近ければこうはならないはずだと信じている、

さらに、それがわかっていながら、できないところに
私の大きな課題があるのだとさえ思っているのだ。



 だから、自分の身体を守るために
「やりたいこと」」をがまんしたとて
結局は同じような状態になるに違いないのだ。




 そもそも、
この世での借り物に過ぎない肉体という物質のために
本当の私が「してみたい」と思うことをやめて
何の意味があるというのだろう。

嫌々やって病気になるのは愚の骨頂である。
しかし
「どうしても、そうせずにはいられない」というようなとき
もし、それが身体にマイナスの要因になったとしても
肉体を守って「見えない私」の部分に不満をため込むより
ずっとずっと意味のあることのような気がするのだ。


「生きる」とは「魂の思いをなすこと」であると信じる私にとって
石巻へ行ったことはけっして「するべきではなかった」ことではないし
今後も弱い肉体を守るために
「どうしてもしておきたいこと」をやめたりはしないだろう。



 思いをなすために肉体が必要なことは重々承知打している。
肉体があってこそであり、それゆえに、
暴飲暴食を慎み
早寝早起きをし、
適度な運動をして
メンテナンスをしっかりし
大切にしなければならないと思っている。


 けれど
肉体のために「心から望むこと」を我慢するというのは
本末転倒のような気がするのだ。



 敬愛する星野道夫は
彼の愛するヒグマに襲われ死んでいった。

アラスカで大好きなヒグマをカメラにおさめるために
身の危険を冒していた。


「だから言わんこっちゃない」と
彼の死を批判した人たちもいた。


でも、彼の本当の「生きかた」を知っていた人たちは決してそんな見方はしなかった。


彼は「生きた」のだ。

自然の厳しさと隣り合わせでありながら
魂の赴くままに「生きた」のだ。

それをなさずして長生きしたとしても
それは彼にとっては虚しいことに違いないのだ。





 わたしも「生きたい」のだ。


だから
きっと
今後も
彼女の言うようにはなれないだろう。






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