今日もにぎやかに耳鳴りが聞こえている。
耳に住むセミ 雪降る静けさはもう聴けない
こんな自由律口語俳句を作ったのはもう何年も前になる。
「季語がセミなのかユキなのかわからない」
と評され、理解してはもらえなかった。
評した人は私よりずっと年上だったのに・・・・。
「彼女はまだ、耳鳴りがしてはいないのね。うらやましわ」
とひそかに思ったものである。
最初は微かな蛍光灯の「ジィー」というような音だった。
気のせいかと思うほどだった。
けれどそれは年月とともにはっきりと大きくなり
私の耳の中、いえ、頭のなかが静寂に包まれることはなくなった。
原因は耳の働きの衰えにより脳が過剰反応して、自分の血液などの音までもとらえようとしているから、らしい。
そこへ意識を持っていけば音はかなりの大きさになり、
意識をはずせば全く苦にはならなくなる。
耳鳴りが何か他の大きな病気の兆候であることもあるらしいので何とも言えないが
私はとにかく「気にしない」ことにした。
気にさえしなければ普段の生活には差し障らない。
確かに耳は聞こえにくくなっていて
テレビのセリフが聞き取りにくいことが増えたし
夫の言葉を聞き返さなければならないことも多くなった。
でもこれは、耳鳴りのしない夫も全く同じだから
順調な老化なのだろう。
年を取るということはいろいろと不便になっていくが
しかし、もしかしたらそれは
過剰な情報をシャットアウトできる術でもあるのではないだろうか。
眼が見難くなれば「見なくてもいい」ということであり
耳が聞こえ難くなれば「聞かなくてもいい」という事だと思うことにしている。
何かの本に書いてあった。
「聞きたくない」と思えば耳が聞こえなくなり
「見たくない」と思えば目が見にくくなるのだと。
なるほど、病気とはそのようにしてできてくるのかもしれない。
けれど、必要ないものまでもキャッチしなくてよいように
神様が配慮してくださって「不便」さえも与えて下さっていると思えば有難いではないか。
聴かなければ
見なければ
心を乱さずに済むことは沢山あるもの。
年を重ねて
つくづくと
「穏やかに安らけく」日々を送りたいと願う私にとって
聞こえなくていいこと、見えなくていいことはいっぱいだ。
今はニュースも新聞も不安や恐怖、怒りを煽りたてるに余りある。
「しあわせ新聞」「楽々ニュース」なるものがあればよいのにといつも思う。
だから少々耳が遠くなるのもよし!!
眼が見にくくなるもよし!!
などと気楽に受け入れてしまうのかもしれない。
夕焼け時になってきた
窓から茜色の光が差し込み
サンキャッチャーが今日最後の虹を映し出す
静かで美しい大好きな時間
こんな光景はいつまでもみえていてほしいけれど・・・・・