はげまるのぶら~り日記

横浜の渋い空間散策日記

異国情緒あふれる港町  横浜(79)   イセビル(2)

2011-04-28 00:52:44 | 日記



それでは「イセビル」中を散策します
「イセビル」の角には老舗の和菓子屋さん「堂明文」の看板が見える
そうなのです 戦前の右から読む看板だ
「文明堂」さんだ

戦前からある「堂明文」の看板を横目に ビルと無関係のはげまるは
ニタニタるんるんしながら「イセビル」にこそこそと
入って行った





ビルに入っている会社の名前が各階ごとに書かれている
もちろんエレベータなんて無いのである




戦前からある階段である
その渋さに改めて う~ん う~ん と唸り声をあげる はげまるである





さらに う~ん う~ん うっふ~ん なんて 
唸り声を出しながら 擦り減っている足元の階段あたりを撮る
(あほか)





二階の様子であります
普通のビルみたいな感じである






お待ちかね 得意分野のトイレである
女子便所の中の写真でも撮るかな~  にたり

ところが ぎっちょんちょん 
流石のはげまるでも ここで はっ と正気にもどったのである
まだ夕方5時前であり 写真を撮っている所を
もし ビルの関係者に見られたら一大事である

即 警察に連絡 即 逮捕監禁である
オマケにこの「イセビル」の前に交番がある
翌日の新聞の横浜版三面記事に
「女子トイレ盗撮!ニタリはげおやじ逮捕」の記事が頭をよぎったのである

う~ん  危ないところであった  やれやれ







3階に上がって 窓の外を写した写真
(3階4階5階とも 2階と同じ感じでした)

「イセビル」出来たての昭和2年頃 この窓からみた伊勢佐木町通りの景色は
 一体どんな景色であったんだろうな
なんて考えたはげまるであった






戦前の「イセビル」であり 昭和前期頃と記してあったモノ

イセビル会場椅子席ト余興場(四階)
イセビル旭牛鍋場(二三階)
と記してある

そうなのです戦前の「イセビル」は今みたいな事務所ビルではなく
総合娯楽ビルであったのが分かる

4階で落語や踊りを見てから 下の階で牛鍋を喰らう
牛鍋といえば 横浜の「大田なわのれん」さんが明治元年(1868年)に創業したのが
始まりであり 
モダンな食べ物 舶来品 高価な食べ物であった事と思う



イセビル屋上展望台食堂(五階)・イセビル和洋食堂(地下室)
と記してある (モニターから撮ったので画像悪し)

総合食いもの屋娯楽ビルであった事が分かる

まあ その頃の 伊勢佐木町通り「イセビル」はもちろん
テレビはねぇ 携帯ねぇ 車なんか持っているのは お大臣様ノミ
ラジオだってほとんど見た事ねぇ
のんびりした時代が想像できるのである






「イセビル」の真裏にある コーヒー豆の専門店「南蛮屋」さん

ここはそれほど古くはなく昭和59年に開店したそうである






「文明堂」 老舗の和菓子屋さん
年配の紳士が買い物をしているのが見える
きっと 常連さんで よき昭和の時代を知り尽くした人だろうな







表通りには 居酒屋の「てん」の入り口が見える
店は二階にある





入り口の照明が なんか悩ましく
思わず イセビルにマッチしているな~
なんてにんまりした




階段の照明も 赤色でいい
きっと「てん」さんも 昭和の色に染まろうとしているのかもしれない
今度中に入って酒でも飲むとするか。
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異国情緒あふれる港町  横浜(78)   イセビル(1)

2011-04-25 05:41:37 | 日記




それでは「イセビル」散策と行きます





「イセビル」
なんとなんとなんと 昭和2年に建てられ激動の戦前~戦後を生き抜いてきた
しぶといビルである
前に散策したこの「イセビル」の裏通りにある
「田中屋茶店」の倉庫は大正時代か生き抜いたモノであり
このあたりの建物は横浜市で歴史的建造物民間番外編
として是非登録して欲しいものである

はげまるが役所にでも出向いて 陳情する予定である
予定は未定ではあるがね

間門に戦前からある「間門湯」も同様であるな

以下は 案内本からの転載であります

<伊勢佐木モールの入口にある「イセビル」昭和2年建築の建物で、
こげ茶色のタイルで縁取りされたアーチ形の窓が素晴らしい

建築時、地盤が軟弱で基礎工事に生松の杭400本が打たれた難工事だった
平成での補修時に、まだ地震に耐えうるとの評価を受け
当初基礎工事にかかった建築費は、無駄でなかった
戦前からあるイセザキモール最古のビルである>

ふんふん そうであったのかいな




その当時の西洋建築の様式を感じさせる窓 
たまりませんね





いいぞ~  いいぞ~






一階の角付近に昔からある アメリカ衣類御用達の店が二軒ある


<カメラ 銀塩カメラ 50ミリレンズ使用>







手前の店が「モチヅキ」
(多分である ここの息子さんの名前が 望月なので 推測であります)
その隣の店の名前は「いわ乃」さん

「モチヅキ」ではアメリカ製のGパンやらジャケットやらを
何度か買った思い出がある
もちろん日本製の安いのもあり この当時の穴場的な店であった
ここと「都橋商店街」が はげまるは」もちろん
ハマッ子達がよく通った店であった

<カメラ 銀塩カメラ 50ミリレンズ使用>





「モチヅキ」さんの隣の「いわ乃」さん
かなり御年をめされた女性が 椅子に座っているのが写っている

きっとこの店の店主なんだろうな


<カメラ 銀塩カメラ 50ミリレンズ使用>





最近の写真である

渋い店あたりは 新しい店になっていた
「いわ乃」さんが改装したそうである
(よんぼうさんの書き込みを参考にしました)
「モチヅキ」さんは不明であります

又はげまるの懐かしき昭和が消えていたのである・・・





「イセビル」の裏側

夕方撮りであります




さらにもっと暮れた夕方





さらにさらに完全に夜

ここで半日定点撮影していたのである 
  (ウソです)






サントリー 居酒屋コンパ
コンパなんて名前は懐かしいな~  昔はコンパという飲み屋が沢山あった
コンパとは本来学生達が費用を出し合って 
懇談会もどきを催す言葉であるが

この手の名前の「コンパ」は
まあ 安く飲める店であり 学生さん達みたいに おに~さんおね~さん達がわいわいがやがや
好みのおね~さんを見つけ
「おじょ~さん どこから来たの~ 一杯おごるよ~^^」なんて
おじょ~さん
「なによ  呼んでないよ この はげおやじ」

<5年前の写真 リコーGRD>





「なによ  呼んでないよ この はげおやじ」

のコンパもかなり前から閉店していて 店の名前あたりの文字も
かなり ハゲかっかっている (ぎく)





夜になると「イセビル」は ますます昭和の時代の香りを
ぷんぷんぷん とかもし出している

  ぷんぷんぷんとね。


次回は中を散策します
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異国情緒あふれる港町  横浜(77)    吉田橋

2011-04-22 00:59:47 | 日記
JR関内駅がマダ存在していなかった頃
そう根岸線がまだ走ってなかった頃 
伊勢佐木町に行った事が何度かある

桜木町駅から歩いて 吉田橋を渡った記憶がかすかに残っている
今では吉田橋の名前も橋も存在しているのであるが 
橋の下には川は流れてなく
車が流れているのである(首都高速である)

今回の話は その吉田橋がまだ意気揚々
「俺は 橋なんでぃ~ でかくて長い~ 御立派 本物の橋なんでぃ」
とデカイ態度の頃(そんな事ないか)
の写真を中心に話を進めていく





戦前の写真だと思うがよくわかりません
左手に見える赤レンガ風のビルは「松屋」
右手に見えるビルが 今でも現存する「イセビル」であります
イセビルのデカイ広告看板には「ルービンリキ」
そう キリンビールだ

ほらね 吉田橋さん デカイ態度に見えるでしょう
(そんな事ねぇか)






恒例のパソコンのディスプレイから撮りました
(ファイルサイズが小さいので)

 伊勢佐木町入口 吉田橋  1953年
と書いてある





 伊勢佐木町入口 吉田橋  1953年頃
と書いてあるが 前の写真と同じ年代であるのに
だいぶ様子が違っている それを書いてみると

① 伊勢佐木町入口のモールが違っている
② イセビルの上の看板が「沖正宗」となっているのが見える 
③ イセビルの隣のビルの看板が「フジフィルム」も見える

このあたりが違っているので
この写真は 1953年より後の写真と推測されるのである
(責任は持ちませんがね)






吉田橋を歩く進駐軍 1953年

進駐軍だ そう はげまるが チャン街やら このザキ(伊勢佐木町)
あたりで遊んでいた頃1960年代後半)
友達みんなが 進駐軍と呼んでいたのが思い起こされる

チャン街なんかは 進駐軍さん MPさん(アメリカ兵専門の警察) チャン街の愚連隊さん
(たくさんいた) 日本の警察さん 
洋パンさん(アメリカのパンではないぞ~兵隊さん専門の女性である)


<広辞苑より
パンパン  (言語不詳)第二次大戦後の日本で、
主に進駐軍の兵隊を相手とした街娼・売春婦を指した語 >


その中に はげまるみたいな冒険好き音楽好きの一般人が入り乱れて
ゴキブリホイホイ満杯状態で うんじゃらうんじゃらしていた
(こんな言葉ないか) 時代である

今でも はげまるはアメリカの兵隊さんを見ると
あっ 進駐軍さん ギブミ~チョコレートはないが 「ギブミ~ マルボロ」
と心の中で思ってしまうのである
よく基地の中でもらった思い出があるな~

FEN(Far East Network:極東放送網)なんて 進駐軍放送と呼ばれていたな
今でもそう呼んでいる (ほんと  はげまるだけかもな)

根岸ベース(基地)も 9.11以来 ゲートの警備が厳重になり
気楽に車で入れなくなってしまい つまらないのである
(機関銃もってるもんな~ おっそろしか~)



昔よく飲酒運転で基地の中に入り 来客用のパス貰って
中の 根岸バーで飲んだな  ははは
今だったら 入り口で即 銃殺かもな ははは





まだ 普通のおもらいさん他 戦争での負傷兵(傷痍軍人)さん達が 
沢山路上でおもらいさんをしていた時代である






根岸線開通した頃の写真 1964年






1977年

イセビルの看板「沖正宗」がまだあった
沖正宗さんは しぶといのである
写真では 吉田橋の下あたりは 川を下に押し込めて
首都高の工事中みたいな感じである






現在の吉田橋

吉田橋さんも 昔はこの下に川が流れたなんて
忘れてしまっているのかもな 




吉田橋の下には 川の流れる音の代わりに
ごーっ がーっ と車の走る音が鳴り響いている





橋の両側を走っている車道も 昔は川であったのだ





現在の吉田橋の姿です

イセビルの広告看板は「救心」となっている
「ルービンリキ」>「沖正宗」>「救心」
イセビルの隣のビルの広告看板は
「大和証券」>「富士フィルム」>「キャノン」
吉田橋もイセビルの広告看板も 生々流転である








JR関内駅から桜木町方面の電車に乗って撮った写真

次回は「イセビル」について散策するかな。

お断り 
時代推測は独断でやっております
何か情報がありましたら 教えてください
宜しくお願いいたします
  はげまる敬白
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異国情緒あふれる港町  B級横浜散策(55)   横浜橋商店街 裏通り 「三河屋食堂」

2011-04-19 01:00:12 | 日記



横浜橋商店街裏通りにある 定食屋さん 「三河屋食堂」
少し前の散策で 店先にゴキブリ退治の王様「コックローチ」が軒先に置いてある
本格炭火焼 本格立ち飲み屋の(なんか変か) ヤキトリ屋さんを書いたが
そこから100メートル位の距離にある




店先のウィンドウは なかなか洒落ていて一見 小粋な小料理屋さん風である





定食屋さん兼飲み屋みたいな店である

写真には はげまるの母の後姿が見える 
この日は 車で毎年恒例の大岡川の桜見物に連れて行った帰りであり
母もコノ店がお気に入りである





なにしろ おかずの多さに毎度感心するのである
焼き魚数品 煮魚(サバの味噌煮) 刺身(マグロぶつ切りノミ) 豚しょうが焼き
カレーライス オムレツ トンカツ  イカフライ  親子丼・・ 等
巷の定食の定番のほとんどを網羅している(大げさだなぁ)

中でも紙切れに品目が書いてあり ずら~と並んでいると
いやがおおでも 定食屋感が増し 食べる前からルンルン気分になり
食べながらスキップでも踏んでみたくなる
(貧乏ゆすりかもな)






特筆するべきは 手作りの 煮物類 から揚げ キンピラ牛蒡(ごぼう)・・他
多種あり もう文句無しの 定食屋さんなのである





はげまるは恒例の「麦とろ定食」を注文したのであるが
今 隣の客3人が食べて本日は無いそうである

いまいましい隣の客であるが ここは大人である
笑顔で「な~ぁんだ 残念だな~」と明るく振舞うはげまるであるが
内心 灰皿でも投げようかなぁんて思っていてたりして 
 ははは

したがって写真は
白いゴハンにとろろ定食である
いつものあさりの味噌汁も 美味い





母は サバの味噌定食を おいしいおいしいと言いながら食べていた
お新香の小鉢を注文した(小鉢300円)
漬け物が少し 漬け過ぎてているという事で 塩出ししてもらった
かくや風漬物であり
文句なし 美味かったな~

この店は 大おばさん(70歳すぎ)中おばさん(はげまると同年代か少し上かも)
小おばさん(50代半ば)
(全て推測であり 当方は一切責任を負い兼ねます)

もちろん 注文する時は必ず
「おね~さん」と呼ぶのが このような定食屋さんでのしきたりである
中おばさんも 気分がよくなり
定食に付随して出てくるオマケのお新香も タクアンが一切れは多く付いてきたり
味噌汁のアサリも多めに入ってくる
(感じがするな)

向こうも向こうで はげまるの事を「おに~さん」と呼んでくれる
けして 「そこのハゲのおじさん~」なんて呼ばないのである

こっちも気分が良くなり 気が大きくなり 790円のお勘定であったら
小銭を800円テーブルの上にちゃりんちゃりりん~と置いて
「お釣りはいいよ~」 なんて店を出て行く事になる
規模は小さいが はげまるの人生こんなもんなので
こんなもんなのである


最近 大おばさんは足が悪いので 週二日ぐらいしか出てこないそうである
今日も会えなかった それが少し 残念であった。
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異国情緒あふれる港町  横浜(76)   野毛  センターグリル

2011-04-16 04:16:03 | 日記



先日 野毛の散策の時に コメントを書き込んでくれた人の話の中で
「センターグリル」の名前が出てきた

思わず にんまりしてしまった
前回の「ジャックス」よりも歴史は古いし
「ジャックス」がお金持ち御用達なら コノ「センターグリル」は
並みの庶民御用達である

ランチが180円の時代は知らないが 大昔に二度ほど行った思い出がある
それに確か5~6年前に 野毛の大道芸の日に店の前を通り
懐かしさのあまり入った記憶があった

早速写真のフォルダーを捜してみたら
ピンポーン 当たり
2005年4月24日 (デジカメの凄い所は 日付けその他の情報が即わかる事である)
カメラは ミノルタ DiMAGE A1

このはげまるのブログでは カメラ好き仲間の多数覗いているので
たまにカメラの話を書いているのである

今回の写真は DiMAGE A1 

発色は こってりしていて大好きであったが

電子ファインダーが最悪で 見ただけで写欲が失せるものであった
また暗い所ではピンがなかなか合わず 
雲天時も写真が少しピシッとこない しまらない写りになる事が多々あった
おまけにじじぃにとって難航不落のスィッチ類が多々あり
2年ぐらいで手放したカメラである 






ただ 晴れた日には 
ほらね  こってり系でいいでしょう
(ハワイ ノースショア にて 2005年2月)







この写真は 無段拝借したもの
まず 「センターグリル」の上は 「風國米」下には「食洋」と書いてある
そうなのです 戦前の書き方は右から文字を書いていたのが基本で
それがマダ残っていた戦後の昭和の名残りである

電話番号も (3)3163番 とあるのがみえる
三ケタではなく 一ケタである  (すっげ~)
流石 昭和21年からある店であるな  






その6年前に撮った写真

創業 昭和21年と書いてある (はげまるはマダ生まれて無いぞ)







食事は二階でするのであり 一階は厨房が中心である
その二階から一階を撮った写真







その時食べたハンバーグライスである
もちろん美味いのであるが 一番感動したのは
付け合せのスパゲディ(具は入って無いパスタのみ)
懐かしい「これぞ横浜」の味付けで感動したのを覚えている


写真であるが この頃はマダ 散策ブログなんて書くつもりも無かったから
いいかげんスナップ撮りであったのが分かる

今だったら もっと接写したり 
恒例のトイレなんかも撮ったりしている
50年ぐらい後になったら きっとはげまるは
平成の時代 店のトイレを撮り続けた
「平成のトイレ撮りの巨匠」として不朽の名声を得るのである
(やけくそだな)

さてと
ここまでが ミノルタDiMAGE A1 の写真であります

そしてこれからの写真は 先日撮ったモノ
そうなのです しっかり現在の「センターグリル」であります
<カメラ キャノンs90>



















お二階へどうぞ・・
(この・・・がいいな~)
変な所に感心するのがはげまるである

これが「センターグリル」なのです

二階にあがったら 布団がひいてあり
おね~さんが 「お風呂が沸いていてますよ」
なぁんて事は無いのだ(あたりまえだ)





「センターグリル」の二軒隣の酒屋

看板が凄い  きっとこの酒屋も凄い歴史があるんだろうな~
なんて思った

野毛はホント 奥が深いのである。
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