はげまるのぶら~り日記

横浜の渋い空間散策日記

異国情緒あふれる港町  横浜(77)    吉田橋

2011-04-22 00:59:47 | 日記
JR関内駅がマダ存在していなかった頃
そう根岸線がまだ走ってなかった頃 
伊勢佐木町に行った事が何度かある

桜木町駅から歩いて 吉田橋を渡った記憶がかすかに残っている
今では吉田橋の名前も橋も存在しているのであるが 
橋の下には川は流れてなく
車が流れているのである(首都高速である)

今回の話は その吉田橋がまだ意気揚々
「俺は 橋なんでぃ~ でかくて長い~ 御立派 本物の橋なんでぃ」
とデカイ態度の頃(そんな事ないか)
の写真を中心に話を進めていく





戦前の写真だと思うがよくわかりません
左手に見える赤レンガ風のビルは「松屋」
右手に見えるビルが 今でも現存する「イセビル」であります
イセビルのデカイ広告看板には「ルービンリキ」
そう キリンビールだ

ほらね 吉田橋さん デカイ態度に見えるでしょう
(そんな事ねぇか)






恒例のパソコンのディスプレイから撮りました
(ファイルサイズが小さいので)

 伊勢佐木町入口 吉田橋  1953年
と書いてある





 伊勢佐木町入口 吉田橋  1953年頃
と書いてあるが 前の写真と同じ年代であるのに
だいぶ様子が違っている それを書いてみると

① 伊勢佐木町入口のモールが違っている
② イセビルの上の看板が「沖正宗」となっているのが見える 
③ イセビルの隣のビルの看板が「フジフィルム」も見える

このあたりが違っているので
この写真は 1953年より後の写真と推測されるのである
(責任は持ちませんがね)






吉田橋を歩く進駐軍 1953年

進駐軍だ そう はげまるが チャン街やら このザキ(伊勢佐木町)
あたりで遊んでいた頃1960年代後半)
友達みんなが 進駐軍と呼んでいたのが思い起こされる

チャン街なんかは 進駐軍さん MPさん(アメリカ兵専門の警察) チャン街の愚連隊さん
(たくさんいた) 日本の警察さん 
洋パンさん(アメリカのパンではないぞ~兵隊さん専門の女性である)


<広辞苑より
パンパン  (言語不詳)第二次大戦後の日本で、
主に進駐軍の兵隊を相手とした街娼・売春婦を指した語 >


その中に はげまるみたいな冒険好き音楽好きの一般人が入り乱れて
ゴキブリホイホイ満杯状態で うんじゃらうんじゃらしていた
(こんな言葉ないか) 時代である

今でも はげまるはアメリカの兵隊さんを見ると
あっ 進駐軍さん ギブミ~チョコレートはないが 「ギブミ~ マルボロ」
と心の中で思ってしまうのである
よく基地の中でもらった思い出があるな~

FEN(Far East Network:極東放送網)なんて 進駐軍放送と呼ばれていたな
今でもそう呼んでいる (ほんと  はげまるだけかもな)

根岸ベース(基地)も 9.11以来 ゲートの警備が厳重になり
気楽に車で入れなくなってしまい つまらないのである
(機関銃もってるもんな~ おっそろしか~)



昔よく飲酒運転で基地の中に入り 来客用のパス貰って
中の 根岸バーで飲んだな  ははは
今だったら 入り口で即 銃殺かもな ははは





まだ 普通のおもらいさん他 戦争での負傷兵(傷痍軍人)さん達が 
沢山路上でおもらいさんをしていた時代である






根岸線開通した頃の写真 1964年






1977年

イセビルの看板「沖正宗」がまだあった
沖正宗さんは しぶといのである
写真では 吉田橋の下あたりは 川を下に押し込めて
首都高の工事中みたいな感じである






現在の吉田橋

吉田橋さんも 昔はこの下に川が流れたなんて
忘れてしまっているのかもな 




吉田橋の下には 川の流れる音の代わりに
ごーっ がーっ と車の走る音が鳴り響いている





橋の両側を走っている車道も 昔は川であったのだ





現在の吉田橋の姿です

イセビルの広告看板は「救心」となっている
「ルービンリキ」>「沖正宗」>「救心」
イセビルの隣のビルの広告看板は
「大和証券」>「富士フィルム」>「キャノン」
吉田橋もイセビルの広告看板も 生々流転である








JR関内駅から桜木町方面の電車に乗って撮った写真

次回は「イセビル」について散策するかな。

お断り 
時代推測は独断でやっております
何か情報がありましたら 教えてください
宜しくお願いいたします
  はげまる敬白
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする