はげまるのぶら~り日記

横浜の渋い空間散策日記

異国情緒あふれる港町  横浜(69)    桜木町デパート と 横浜エイトセンター

2011-03-10 00:50:28 | 日記
みなさん  「桜木町デパート」って 耳にした事ありますか

はげまるは初めて耳にしたもんで よく分からないのであるが
先日ご近所のにあるクリーニング屋さんの オジサンが
(はげまるよりオジサン)
 
「都橋商店街と 横浜エイトセンターはよ~兄弟みていなもんで
そんれには(それには)「桜木町デパート」が 絡んでいたんだよ~」
と 未だに とうほぐ(東北)なまが抜けない語りで教えてくれたのである

テナ事で急遽 対談と相成った次第であります

これから先は はげまるの質疑
とうほぐ出身の おじさんの応答で話を進める事にする

ここで紹介する事にする
「今日は宜しくお願いしま~す 芋畑掘ぇ門さんで~す (仮名)」(はげまる)

「ドォンゾ(ど~ぞ)ヨンロスク(よろしく)」(おじさん)





「あの~ おじさんはいつ頃 横浜に来たのですか」 (はげまる)

「オエが(俺が) スウダン(集団)スウソク(就職)でね
ウイノ(上野)ば着いんたのは戦後まもなくでよ~
そんれから横浜さにきたんだども 車とかねバスとかね沢山見てね~
ドデしたな~(動揺した)ぺな」 (おじさん)

「あの~ 桜木町デパートって 今のデパートみたいだったんですか?」
  (はげまる)

「イインヤ(いいえ) ツゥサイ(小さい)飲み屋がテェ~クサン(たくさん)
中に入っていててよ~ん
オエ(俺)ら 毎日シンダケ(一生懸命)働いてよ~ん  そんれでも(それでも)
夜になるとよ~コンドク(孤独)で寂しいからよ~ よくソゴ(そこ)に
通ったんんだ~よ~

ソゴ(そこ)でなぁ メンコエ(かわいい)若いお店のオバコ(おね~さん)の
ヤッコエ(柔らかい)肌触ってよ~ どぇりゃ~楽しかっただなべ~
そのネッチャンのネメエ(なまえ)はよ~ 」
(おじさん)

「・・・・あの~  そろそろ本題に入りたいんです」(はげまる)

ンダ (はい) 
 (おじさん)

おじさんマダマダ話足りないみたいで
少し残念そうである

ここからは おじさんに少し黙っていてもらう事になった

さてとそろそろ 本題に入りますか


(このおじさんの奥さんは 名古屋方面出身 その他
いろいろな方言が交じり込んでいるな~なんて思った はげまるである)







コノ写真は 桜川新道の昔の姿 そうなんです


桜木町駅から横浜に通ずる国道16号線と平行に流れていた桜川
それを埋め立てている頃の写真であります
ここからは参考資料をもとにして 話を進めて行く事にする


<資料① 
1952年になるとドブ臭い桜川の埋め立てが始まり、
露店小屋の飲食店は撤去され、中区役所裏の2階建ての建物に集められた。
これが「桜木町デパート」である。>


ここで「桜木町デパート」の名前が出てきた
1952年とは はげまるがまだ4歳の頃であるので
知る余地もないが 川沿いに露店小屋の飲食店が
沢山あった事がわかる



<資料②
昭和27年、桜川を埋め立てて道路を造ることになり、
横丁の酒場は立ち退きを迫られた。
その収容先として建設されたのが「桜木町デパート」だったのである。
毎晩、サラリーマンで賑わっていたという。>



「そうそう オモシェ(たのしい)ところでよ~ 」
(またしても勝手に登場した おじさん)
「ジャンコ(田舎)からよ~オヤズ(親父)さんが出てきた時もよ~・・」

ここで はげまる おじさんの口を左手でふさぎながら

さてと・・・  では次の写真行きますか

どたばた がた~ん~ん 
  (おじさん いやがって暴れている)







はい これが「桜木町デパート」です

写真からは見れないとと思うが 大きいサイズで見ると
入口の上のあたりにある看板あたりに
「酔郷と味覚のセンター」という字が見てとれる

ここからの話は又又 資料をもとにして話を進める事にする


<資料③
建物内部は3坪ほどに仕切られた店が、約140軒並んでいた。>

<資料④
 桜木町デパートの入口は、現在の交番横にあたる。
1階正面は不二家。その前の路上にはウナギの釣り堀もあった。
 「ライカ」、「いざよい」、「ヒンメル」、「太平山」、
「山茶郷」、「小西」など、みんなここにあった店だ。>


洋食の「小西」さん ここから出たのか~
よく食べた思い出がある



<資料⑤
1972年、高速道路建設のため桜木町デパートの立ち退きが決まった。
その中の一部は長者町のエイトセンターや都橋商店街2階へ集められた。
 桜木町駅前から始まった「呑み屋の戦後」は、
こうして各地区に散らばっていったのである>



ここで今回の準主役でもある 「横浜エイトセンター」
の名前が出てきた

ここから冒頭の おじさんの言葉
「都橋商店街と 横浜エイトセンターはよ~兄弟みていなもんで」
の話が確認されたわけである


「うぐうぐうぐ・・・」

おじさんが話したいみたいであるが ガムテープで口をふさいでいる

さらに違う沢山の資料をみてみる



<資料⑥
 ちなみに埋め立てられた川は桜川新道となり、
今では「紅葉橋」とか「雪見橋」などバス停にその名残をとどめてる。
名前はデパートであるが、いわゆる今で言うところの百貨店ではない。
一部、荒物屋みたいなものが入っていたものの

大半が飲食店という2階建ての雑居ビルだった。
総店舗数は100軒以上。毎日ハシゴ酒したって、
全店制覇するには1年くらいかかる飲兵衛の殿堂であったという。>



ひぇ~  100軒以上の飲み屋が一同にビルの中にあったなんて
すっげ~~^^



<資料⑦
 昭和39年、派大岡川の中に橋脚を建てて根岸線が開通し
、桜木町から磯子方面への足が確保されたわけだが、
その線路に沿うような形で新しい道路を建設するということになり、
その障害物となったのが「桜木町デパート」だった。

 その結果、昭和47年ごろ建物は解体撤去され、
中に入っていた酒場は市内各地へ散った。
そのうちの40数軒は長者町8丁目に新しく建築した
「エイトセンター」へ入居。
さらに一部は都橋商店街にも移転したと聞く。>



これが 横浜エイトセンターの出来た概要である

尚 都橋商店街も 野毛の本通りにあった露天商のために
横浜エイトセンター同様 横浜市が建てたものだそうだ

桜木町 野毛あたりに 終戦後の雑踏の中で生まれてきた露天商は
こうして 桜木町デパートから 二つのビルへと移って行ったのである






はい これが「横浜エイトセンター」

昭和47年築であるから  今から38年前か~
すっげ~~
はげまるがマダ はげてねぇ時代だ





「横浜エイトセンター」の看板には 協同組合という字もみられる

そう この飲食店ビルは 横浜市が建てた飲み屋ビルなのである
今では考えられないな~ 
お役所が飲み屋のビルを造るなんてね






看板は夜ともなると 心地よい怪しい姿をかもしでしてくれる
明りが点いてない看板も多々ある 店が入ってないのだろうな
なんて考えられる

さて次回は 横浜エイトセンターの中を散策してみますか

そうそう おじさんはガムテープを口にしたまま 寝ておりますよ。

<おじさんとの話は はじめの書き出し以外
対談はすべてフィクション(創作)であり
おまけに かなりいいかげんです  ははは>

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする