一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『文芸誤報』

2008-12-31 | 乱読日記

実は、この「乱読日記」といういカテゴリーが、年初の時点で131だったので、年末までに200に届かせよう、ということを密かに今年の年初に企てていました。

そういう無理をするとブログ自体が長続きしなくなるのでよくないとは承知なのですが、12月になってどうやら到達しそうになると欲が出てきたのも事実。
ところが本は読了したものの、忘年会シーズンでもあり、また、最後にややこしいものを選んでしまったのでエントリを書くのが年末ギリギリにおしてしまいました。

晴れて大トリを勤めるのは斎藤美奈子『文芸誤報』

本書は週刊朝日に連載した2005年以降の書評をまとめたもの。
369ページと大部なのですが、1冊につき見開き2ページにまとめられていて(ということは150冊分以上あります)気の向いたときに読むことが出来ます。
僕はスポーツジムのトレッドミル(ランニングマシン)でウォーキングするときの暇つぶしに読んでました(切れ目が多いので、汗を拭いたり水分補給したりするのも簡単でおすすめです)。

本書で取り上げられている中で僕が読んだことがあるのが『となり町戦争』『犬身』の2冊だけと、いかに文学と縁遠い生活を送っているかがわかります。

僕は斎藤美奈子の書評・評論は好きです。
読み手としての筋の通し方というか腹の据わり方がしっかりしている感じがしてます。
本書でも自在な切り口で快刀乱麻に料理していて、それが一つのエンタテインメントになっています。

最後に、本書の冒頭にある「文学作品を10倍楽しむ法」の項目を引用して、今年の読書の締めくくりにしたいと思います。

◆小説に教訓を求めるな。
◆小説のテーマを考えるな。
◆登場人物に共感を求めるな。
◆小説に感動を求めるな。
◆純文学と娯楽小説では読むモードを変えよ。
◆お話だけがすべてと思うな。
◆WHATよりHOWに注目せよ。
◆美は「ゆがみ」にこそあると思え。
◆物差しはたくさん持て。
◆困ったときは遠くを見よ。

ブログの書き方にも通じるものがありますね。





今年のエントリはこれで終わりです。
一年間お世話になりました。


来年が皆様にとってよりよい年でありますように!

 

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『リアルのゆくえ──おたく オタクはどう生きるか』

2008-12-30 | 乱読日記

『ゼロ年代の想像力』を読む前にウォーミングアップをかねて読んだ本です(Amazonの戦略にはまったともいえますが)。

東浩紀と大塚英志の対談集。2001年、2002年、そして時間を置いて2007年、最後に秋葉原事件の直後の2008年の対談をまとめています。

一貫して大塚英志が東浩紀をアジり、非難し、時には罵倒しています。
それは東浩紀があとがきで書いていたり対談中でも発言しているように、批判を超えた感情的なもののように見え、そこには大塚のいらだちが見て取れます。
非難の対象は「公的なもの」へのコミットについて、東が消極的であり、メタレベルの視点からそれを無化しようとしていることについてです。
『ゼロ年代の想像力』の著者宇野常寛に言わせれば「『大きな物語』と『データベース消費』をめぐる80年代的想像力と90年代的想像力の対立」ということになるのでしょうか。
「そうはいっても世の中に対して超然としすぎているのは批評家であり一個人として無責任ではないか」とアジる大塚に対し「世の中の構造はこういうものだ、と伝えるのが批評家としての責任であり、一個人のあり方は別問題(ここであなたに言われるべきものではない)だ」という東の議論が堂々巡りをし、読んでいて疲れるのは確かなのですが、その「殴り合い」の中でお互いの立ち位置、フットワークが浮かび上がってきたりもします。

このふたりの両方、またはどちらかに関心のある方なら面白いと思います。
僕自身は大塚とほぼ同じ世代(ちょっと下)にあたるのですが、ちょっとこの語り口は読んでいて疲れます(苦笑)。
「新人類」「ニューアカ」時代に世に出て生き延びてきた人の戦略的露悪趣味というか・・・(うーん、そういうと僕にも少しそういうところはあるか(汗))

一番大塚の世代感をあらわしているのがこの発言

でも確かにぼくは「社会」というものが健全に機能していた時代の子供だから、結局、個人的にはなりきれないんだと思うよ、団塊の世代よりもっと始末が悪いかもしれない。



あれ?

これって『20世紀少年』のテーマだ(笑)。


 

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『ゼロ年代の想像力』

2008-12-30 | 乱読日記

同じく斎藤美奈子の「2008年の批評」で『日本語が滅びるとき』とともに、その対極にあるとして取り上げられていた本。

サブカルチャー批評や若者文化に関する批評がここ数年若手評論家の代表者である(といっても1971年生まれなのでもう40手前ですが)東浩紀の焼き直しにしか過ぎなかったこと、しかし東に代表される考え方は1990年代の「古い想像力」であり、2001年以降に芽生えてきた「新しい想像力」をとらえてはいない、という主張です。
(「1980年代の想像力」の僕としては半分、下手すると1割くらいしかわかっていないのかもしれませんが・・・)

ひとことで言えば

碇シンジ(引きこもり)では夜神月(決断主義)を止められない。

詳しく言えば
90年代は平成不況と地下鉄サリン事件に象徴される社会の流動化によって「大きな物語」が機能しないことが明らかになり(ポストモダン化)、社会的自己実現への信頼が大きく低下した。そのような「意味」と「価値」を社会が与えてくれないなかでは「なにかの価値観を信じれば(社会にコミット)すれば誰かを傷つける」ので「何も選択しないで(社会にコミットしないで)引きこもる」という考え方、「~する/~した」という社会的自己実現ではなく、価値観を相対化・宙づりにしたまま「~である/~ではない」という自己像(キャラクター)の承認によるアイデンティティの確立が志向された(最後の場面で戦うことを拒否して「引きこもって」しまう『新世紀エヴァンゲリオン』(1995~1996)の主人公碇シンジはその象徴。)。
それが東浩紀のいう「データベース消費」であり、そのような世界観の浸透は成長や社会変革を描く物語から「ほんとうの自分」や「過去の精神的外傷」を描く物語が選択され、その結果「キャラクター的実存」は数多くの排他的コミュニティを生み出すことになった。

一方で、2001年の同時多発テロや小泉政権下の構造改革、「格差社会」の浸透により、90年代後半のように「引きこもって」いると生き残れないという「サヴァイヴ感」が社会に共有され始めた。
「大きな物語」が失われた結果「小さな物語」は究極的には無根拠であるが、なにかの「小さな物語」を中心的な価値として自己責任で選択していかなければならない、という現実認識-それを受け入れなければ「政治」の問題としては生き残れず、「文学」の問題としては(「何も選択しない」ということもひとつの選択である以上)成立しない-です。
その「信じたいものを信じる」態度が広まった結果、「9.11以降の動員ゲーム(バトルロワイヤル)」が醸成された。
それを象徴するのが『DEATH NOTE』の主人公夜神月である。

ということです。


もっとも著者はそこで「信じたいものを信じる」という決断主義を無条件に礼賛しているわけではなく、データベース化した排他的コミュニティにタコツボ化した社会からコミュニケーションの可能性を模索しようとしています。

「どうせ世の中勝ったものが正義なのだから」と開き直り、思考停止と暴力を肯定する態度にどう対抗するか、が私たちの課題なのだ。

最終章で語られている将来への処方箋のヒント自体は非常に真っ当な主張です。
ただ、これはまっとう過ぎて、今の20代の人には「結局今までの批評家と同じじゃないか」と思われてしまうかもしれません。


本書が別の意味で圧巻なのは、「ゼロ年代の想像力」の切り口で90年代から現在までの小説・映画・テレビ番組などを次から次へと俎上に乗せて分析し、その有効性を主張している部分です。
僕自身はその中で「読んだ・見た」というのは1割「知っている・聞いたことがある」が4割、残りの5割は「見たことも聞いたこともない」というものでしたが、切り口の鮮やかさ(強引さ)はなかなか見ものでした。
さながら万能包丁の実演販売です(そういえば昔秋葉原の駅前でよくやってましたが、ある意味「アキバ系」かも・・・)。

思い出したのが80年代のパルコ出版のマーケティング誌「月刊アクロス」さまざまな事象を年表に並べて一つのトレンドの切り口でバッサリ切るという大胆な提案が話題になりました(今もWeb Acrossとして続いているんですね。 )。
昔月刊アクロスの編集者だった『下流社会』の著者の三浦展氏の感想を聞いてみたい感じもします。

 

斎藤美奈子曰く

同時代作品はまるで眼中にない水村と、同時代作品しか眼中にない宇野(注:『ゼロ年代の想像力』の著者)。知識人の側に立つ水村と、大衆消費社会のど真ん中に焦点をあわせる宇野。両者の接点はまったくない。が、メディア環境の急激な変化を前に「このままではいけない」「君はわかっていない」と煽る、その姿勢自体はよく似ている。

確かにその通りだと思います。

本書は問題提起としては面白いと思います。

ただ、残念ながら「批評家として上梓すること」に力が入りすぎたのか文体が必要以上に硬いうえに、東浩紀のいう「動物化」「データベース化」「誤配」(デリダか、これは)などの概念を前提にしているのでかなり読みにくいことを覚悟ください。

 

年末につきおまけ(埋め込み無効になっているので画面を2回クリックしてください)

実演販売のコパ・コーポレーションビデオ ののじざく切り包丁 中島章吾実演

 

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『日本語が亡びるとき』

2008-12-30 | 乱読日記
斎藤美奈子が朝日新聞の夕刊に書いている文芸時評のコーナーで「2008年の批評」で取り上げられていた本。
ネット上でも大論争になっていたそうです(知りませんでした・・・)

著者の水村美苗氏は夏目漱石の『明暗』の続編の『續明暗』を書いた人で経済学者の岩井克人氏の夫人、という程度の知識しかなく、一度新聞か雑誌のエッセイで読んだときにちょっと自分に合あわなそうな感じがしたので今まで食わず嫌いできていました。

まあ、斎藤美奈子が読めというなら読まざるを得まい、ということで読んでみたところ、確かに面白く、また問題提起の書でありました。

最初に「食わず嫌い」の件から言うと、導入部の第一章で語り口はけっこう気に入ってしまったので、あとは抵抗なく入れました。


本書の内容をまとめると

昔から世界のそれぞれの地域では「母語」=日常使っている言語があったが、文化や技術を継承するための言語として母語とは別にギリシャ語やラテン語のような「普遍語」があった。
文化的な後進国では先進国に留学し普遍語で学んだ者がそれぞれの国に帰り、学んだものを自分の国の「母語」に翻訳した。
そのとき普遍語を「母語」しか読めない人によめるように翻訳したことで「現地語」ができ、現地語で書く人間が増える、現地語での文化の蓄積が増える=現地語を通して文化(その蓄積を筆者は「図書館」と言います)にアクセスできることで「国語」が成立した。

「日本語」は明治維新後に西洋文明を大量に翻訳し蓄積されたなかで成立したが、それはかつて中国から漢語を翻訳した経験と江戸時代の出版文化があいまってできた非西洋文明における奇跡である。

しかし一方国語として成立した日本語だが、西洋語(現在では普遍語になった英語)からの翻訳は多いが日本語の文献が西洋語に翻訳されることは極めて稀である。
したがって、日本文化、日本文学が普遍語の「図書館」に入れられることは極めて稀である。
今後インターネットの普及などでますます文化へのアクセスが普遍語である英語で蓄積された「図書館」に集中する中で「叡智を求める人々」は英語へと流れてゆく。

今後とも日本語が「国語」としての魅力を持ち続けるためには、
①世界に向かって英語で発言力を持てるバイリンガルのエリートを育てること
②日本の国語教育は日本語が「国語」として成立した原点である近代日本文学を読み継がせることを主眼とすべき

ということになります。

最後の段落までの部分、普遍語が文化の伝播・承継の中心として機能するというあたりは、夫の岩井克人氏の貨幣論を髣髴とさせるテンポのいい語り口で説得力があります。
貨幣でいえば、基軸通貨と現地通貨のようなものですね。
実際に自然科学の分野では論文も先端の研究は英語で発表して評価を得ないと意味がない時代になっています。


論争になっているのは最後の段落の部分だと思います。

①については育てようと育てなかろうと、研究者やビジネスマンは英語での発言力を磨く必要に迫られています。それを学校教育特に選抜された「エリート」に叩き込む、ということが必要かどうかは議論のあるところだと思います。
「エリート教育」という言葉自身に抵抗があるのかもしれませんが、僕自身は「エリートに限定する必要はないんじゃない?」と思います。エリートでなくても必要に応じて意味のある発言をする必要は出てきますので(たとえば「ジャパニメーション」について「エリート」が代弁しても意味や影響力のある発言が出来るとは思えません)。

より問題は②。
そこまで「近代日本文学」に特権的地位を与えないといけないものなのでしょうか。
日本語の「図書館」を充実させる中で、文学は近代文学以外の蔵書を入れない、というのは理屈に合わないのではないかと思います。
著者は最近(というか戦後以来)の日本文学は価値がない、とものすごく大胆に切り捨てています。
まあ、それも一つの意見ではあると思うのですが、『ニッポンの小説-百年の孤独』で高橋源一郎は逆に現代小説は近代日本文学の呪縛から逃れられていないのではないか、という問題提起をしています。
それはある意味近代日本文学以外はクズ、という水村氏の主張と表裏でもあるのですが、高橋氏はそこを突破することこそが「文学」である、と、その先を信じています。

僕としては高橋源一郎の考えの方が好きです。

近代日本文学が「聖書」になってしまい、後はその解釈や伝承だけ、というのなら、あえて守る必要もないんじゃないかな、と思います。


<追記>
関連したエントリはこちら参照



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『グラディエーター』

2008-12-29 | キネマ
これもラッセル・クロウとリドリー・スコット監督の組み合わせ。

ローマ時代の剣闘士とか合戦の「西欧流時代劇」物はとりたてて好きではない、という理由で今まで観ていなかったのですが、ついでに借りてみたところ面白かったです。

ローマ5賢帝の最後の一人マルクス・アウレリウス・アントニヌスから当時のローマ帝国としては異例の世襲で皇帝に即位したコンモドゥスの時代を題材にとっています。
世襲の裏には・・・という所から始まり、実際にコロッセウムでの剣闘士の戦いを好んだ(実際に本人も登場したらしい)という実話にもからめているせいか、「絵空事」にならずに地に足のついたストーリーになっています。
そのかわり長さは感じないものの、155分と大作です。

ラッセル・クロウが恰好いいです。

ただ、西暦180年頃の刀って、あんなに鋭利に切れたんでしょうかね・・・?



『ローマ人の物語』ではコンモドゥス帝がどう描かれていたのか忘れてしまったので、正月にでも読み返してみようと思います。


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『アメリカン・ギャングスター』

2008-12-28 | キネマ
デンゼル・ワシントンとラッセル・クロウという二大名優に巨匠リドリー・スコット(『ブレードランナー』『エイリアン』)という豪華な組み合わせ。

デンゼル・ワシントンは悪役だとしても最後は「人間的正しさ」を保つような役を選んでいる、よくも悪くもスマートすぎるというか"Political Correctness"重視の俳優というイメージがあります。そんな彼がマフィアのボス役。
一方汚れ役など一癖ある役をやらせれば屈指のラッセル・クロウが麻薬特別捜査官の役です。
こうなるとはまり役、というよりはシナリオが見えてしまう感じもあるのですが、二人の家族関係や二人の間に割り込む悪徳警官が上手い補助線となって奥行きのある映画になっています。

157分と最近の映画にしては長いほうなのですが、長さは感じられず、逆にこれでもちょっと先を急ぎすぎかな、と思わせるくらい、中身の詰まったストーリーです。

デンゼル・ワシントンのスマートさとラッセル・クロウのアクの強さがいいバランスになっています。



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「悪い」の基準

2008-12-28 | よしなしごと

今年は26日が仕事納めだったので、あいさつ回りなどの年末恒例行事と通常の仕事とそれに忘年会がつまってけっこう大忙しでした。

ということで新聞をにぎわしていた社会ネタに出遅れ感はあるのですが、取り上げられ方の軽重に違和感があったのでひとこと。

マクドナルドの新商品発売、「サクラ」動員は東京でも
(2008年12月27日(土)12:58 読売新聞)

日本マクドナルドのコミュニケーション部によると、渋谷区で11月1日、新商品「クォーターパウンダー」を販売する臨時店舗を開設した際、「盛り上がりを演出するため」、イベント会社が手配したスタッフを開店前に並ばせ、商品を購入させるなどしたという。動員人数は公表できないとしている。

これ、どこが悪いんでしょう?
今や大昔、ハーゲンダッツが日本に上陸したときに一号店にサクラの大学生を並ばせてブームを作ったというのが自慢話で語られていたのですが、世の中の意識が変わったんですかね。
別会社に販促費を渡して商品を購入させ売上を計上して業績があがっているように見せかける、というようなことなら問題かもしれませんが、日本マクドナルド全体の売上に対してサクラが買うのはほんの少しでしょうし。ハンバーガーの公表シェアとかに影響するのでしょうか?
そうだとすると「好評発売中」のような宣伝文句もダメ、ということになりそうな・・・

マクドナルド側も「消費者に誤解を与える手法は見直したい」なんて殊勝なコメントを出さずに、いっそのこと『スーパーサイズ・ミー』の向こうを張って、「30日間食べ放題アルバイト募集」とかやったらいいのではないかと。



こんなことに目くじらたてるよりはこっちの方が相当悪質だと思いますが、こちらは朝日新聞のスクープだったためか、他紙ではあまり取り上げられていません。

障害者郵便、8割が「悪用」 郵便事業会社、差額請求へ
(2008年12月24日(水)23:07 朝日新聞)

正規料金との差額は少なくとも約49億円にのぼる。郵便事業会社(JP日本郵便)が24日、総務省に報告し、公表した。

〈低料第3種郵便問題〉障害者団体の定期刊行物を団体の支援者ら特定の購読者に格安で郵送できる低料第3種郵便物制度。これを障害者団体と提携した広告会社などが、格安でDM広告を送れる手法としてウイルコなどの広告主から契約を取り付け、悪用していたことが朝日新聞の取材で次々に判明した。

で、これに対してチェックできなかったということで
割引悪用問題で改善命令=郵便事業会社に-総務省
(2008年12月26日(金)14:30 時事通信)
ということですが、今回「提携」していた障害者団体の責任は問われないのでしょうか。
この辺「社会的弱者」に対して突っ込みにくいというマスコミ(朝日新聞?)の体質なのかもしれませんが、郵便事業会社も障害者団体に「この郵便物は制度の悪用でしょう」といいにくかったことは想像できます。

行政や企業が遠慮して毅然とした態度に出られないところには悪質な圧力団体がはびこるというのは別の分野で既に実証済みですが、そうなると結果的には真面目な活動をしている人々に迷惑が及んでしまうことになります。
障害者団体もその二の舞にならないように、マスコミ(少なくともせっかくスクープした朝日新聞だけでも)満遍なく問題を指摘してほしいものです。


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『イースタン・プロミス』

2008-12-27 | キネマ
ロンドンのロシアン・マフィアをめぐる話です。
主役のヴィゴ・モーテンセンのいかつい顔とごつい身体が役にはまっていて、デヴィッド・クローネンバーグ監督の凄みのある暴力描写を生かしてます。
そこにロシアン・マフィアの秘密を知ることになった助産師役のナオミ・ワッツ(真面目で不器用というのは地のキャラクターなのかしら?)がからんできます。
助演のヴァンサン・カッセル(『オーシャンズ13』でのライバルの泥棒役)の好演も光っていました。


途中からあれ?というストーリー展開の不自然さがあり、そのへんの謎が終盤に明らかになります。
劇場上映を考えると100分という長さは限界だったのかもしれませんが、ちょっと最後のまとめを急ぎすぎたきらいも無きにしもあらずです。

それから、縦糸になるナオミ・ワッツの持つロシア人少女の日記(これが原題のもとにもなっている)や横糸になるロシアン・マフィアのトルコ人やチェチェン人などとの関係にもう少しふくらみを持たせればイタリアマフィアとの違いがより船名になったと思いますが、そうなると『ゴッドファーザー』なみの長さになってしまうからやっぱり無理か・・・



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御用納め

2008-12-26 | あきなひ

今年は今日で御用納めになります。

新年恒例の新聞各紙で「有識者に聞く今年の景気予測」というような記事が載りますが、今年は経済情勢が激変しているので日経新聞は締め切り後にも差し替えを認めることにしたとか。

でも、他紙が差し替えできないとすると、同じ人で違うコメントが載ってしまうことにならないんでしょうか。

ところで、2008年の新年の予測はどうだったかと日経新聞を見てみます。

まずは日経平均株価予測
2007年12月末の株価は15,307.78円でした。
「有識者」21人の平均は、高値18,476円安値14.633円でした。
特に安値は一番低い人でも14,000円(3人)で14,500円(10人)15,000円(7人)と全般的に底堅いという見方がうかがえます。
高値は比較的ばらついていて、一番低い人が16,500円一番高い人が21,000円でした。

ところが2008年は大発会に15,156.66円の高値を付けた後下落を続け、10/28に6,994.90円の安値を付けました。

高値予測が一番高く一番強気だったと思われるのが鈴木大和証券グループ本社社長。
「判断理由」の欄には

年央までに金融不安は沈静化。北京五輪後も衰えない中国経済を筆頭に新興国の成長がけん引し、年後半にかけて堅調な相場展開。

とあります。
業種柄、強気なコメントをせざるを得ないのかもしれませんね。

高値予測が一番低く一番弱気だったと思われるのが藤原しまむら会長。
コメントは

世界的に転換点となる1年。07年度企業業績の出る5月がピークでその後は世相に合わせ市場は軟弱化すると思われる。

と正鵠を得ているのですが、それでも安値の予想は14,500円でした。


次に為替(円ドル)。
20人が6月末と12月末を予測しています。
20人中10人が年末のほうが円安、と予測、年末のほうが円高と予測したのは5人だけでした。
高値(円安)平均は111.55円(うち最高値は117円)、安値(円高)平均は106.55円(最低値は95円)でした。
一方実際は、昨年12月末の終値は112.26円で、年明けは1月2日の112.12円が結果的に最高値で、12月17日には87.10円まで円高になっています。

一番円安を予測したのは佐々木JTB社長。実質成長率のところのコメントには

企業業績に先行き不透明感がある。原油価格の上昇や米国経済の先行きに懸念

とあり、秋口までの見通しは当たっています。

唯一二桁の円高を予測したのは田谷貞三大和総研特別理事。
ただコメントは

個人消費、設備投資、輸出それぞれの伸び率が若干鈍化。住宅投資の反動も大きくない。

ともっぱら国内景気についてだけだったので、為替予測の根拠はわかりませんでした。


どうしても将来予測は予測時点の数字に縛られてしまいますし、他の経営者・有識者と著しく違う予測を立てたときに外れるとみっともないと考えたりすると、結局は予測時点の数値を基準にほぼ似たようなものになってしまうのは仕方がないのかもしれません。
さらに昨今の情勢下では経営者・有識者がコメントを出し渋る気持もわかります。

ただ、そういう人の目を気にして中庸をよしとする経営者がこの激変期を乗り切れるかという問題もあるかもしれません。


その意味ではこのタイミングではけっこう面白いとおもったのがこれ。
トヨタ社長交代、豊田章男副社長が昇格へ 09年4月
(2008年12月23日3時7分 朝日新聞)
ご本人の能力・性格は知りませんが、他人の目を気にせずに大胆な経営をするにはオーナー(大株主)が経営に当たるというのはいいのかもしれません。
なにしろ下手を打つと親戚一同の資産が目減りするわけですから。
(それにサポートする役員とか現場などの足腰がしっかりしているのでそんなにひどいことにはならないでしょうしね。)

  

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飯島愛さん死去

2008-12-25 | よしなしごと
元タレント飯島愛さん死亡 自宅居間で知人女性が発見
(2008年12月24日(水)19:12 朝日新聞)

世代的には「お世話になった」わけではないのですしTVで見ていただけの印象なのですが、AV女優という一番消費されやすいところから芸能界デビューしながらもメディアに消費されない強さと賢明さを持っていそうな人ではないかと思っていたので残念です。


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春日電機 その6

2008-12-25 | あきなひ
うっかり見落としてました。

代表取締役及び取締役辞任に関するお知らせ

代表取締役の篠原 猛氏はアインテスラに対する380百万円の貸付と仕入商品に係る204百万円について特別損失を計上するに至った経営責任及び再発防止のため平成20年12月26日付で
取締役大槻洋氏と佐藤將氏は特別損失の計上を回避できなかった経営責任及び再発防止のため、現在提起されている訴訟対応その他引継業務のため、大槻氏は平成21年1月31日まで、佐藤氏は来年の当社定時株主総会開催日までのうち、対応すべき業務が完了し次第辞任するとのことです。

双方痛み分けなのか、沈没船からとっとと逃げるのかはわかりませんが、アインテスラからの訴訟とか篠原氏への責任追及なども含めて水面下で手打ちができたのでしょうか?


3.今後について
各取締役が辞任し次第、裁判所に対し、仮取締役の選任を申し立てていく予定です。
今後の対応については適宜開示いたします。


ますます会社法の教材風になってきましたね。


<関連エントリ>
春日電機
泥沼二件
春日電機その3
春日電機その4
春日電機その5


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Merry Christmas

2008-12-24 | よしなしごと
小松製作所の人に聞いた話

小松製作所も建設機械メーカーの技術を生かして対人地雷除去装置を開発し、アフガニスタンやカンボジアのNPOなどに提供しています(参照)。
もっとも地雷には対戦車地雷もあるので、車両は対戦車地雷にも耐えられるように作られています(こちらに実験中の動画があります)。
技術的には対戦車地雷も除去可能な装置も作れるので、現地にとってはそのほうがより効率的なのですが、


 対戦車地雷除去装置は「武器」にあたるので輸出できない


のだそうです。
小松製作所ではGPSや車両制御技術を応用したKOMTREXというシステムがあり、搭載車両は、世界中のどの場所にいるか、運転中か、どのモードで作業しているか、いつ給油したのかなどがわかるそうです(詳しくはこちら参照)。
もともとはメンテナンスサービス用のシステムなのですが、これを利用すれば海外でも別用途に悪用されないよう監視はできるのに。


インド洋で油を売るのに特別措置法を作るくらいなら、こういうことの法的な手当てをすべきだと思うのですが・・・



来年は世の中が平和でありますように


Happy Xmas (War Is Over) - John Lennon


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M&Aアドバイザリーって何よ?

2008-12-24 | あきなひ

toshiさんのブログ経由の記事

損害:M&A算定で神戸の元会社社長ら 三井住友銀提訴へ
(2008年12月20日 22時09分 毎日新聞)

M&A(企業の合併・買収)で会社を売却する際、価格算定が不適当だったため不当に低い価格で売るはめになったとして、神戸市の元会社社長の男性(60)ら元株主15人が、売却を仲介した三井住友銀行(本店・東京都)に、約1億4700万円の損害賠償を求める訴訟を近く大阪地裁に起こす。過去に工場を移転した際、新工場の帳簿上の価格(簿価)を時価より低く設定したが、転売時には時価が適用されることを見過ごしたと指摘している。M&Aを巡り仲介の銀行の責任が問われるケースは珍しい。  

訴状などによると、元社長は、筆頭株主で社長を務める精密部品製造会社(神戸市)を売却しようと07年6月、売却額算定や売却先のあっせんなどを依頼する「アドバイザリー業務契約」を同銀行と締結した。

toshiさんのエントリで「仲介」と「業務委託」のところを後で修正されているのですが、元の方が実際に近いように思います。
実際はごっちゃになっている、というより、実質仲介を「M&Aアドバイザリー契約」という名目で契約しているのがほとんどだと思います。

というのは、上場会社同士のガチンコの提携・合併交渉とかなら別でしょうが、自社の企業規模に比べて小さい会社や事業の一部を買う(売る)という場合は案件を買主が見つけてきて会計事務所とか弁護士にDDを依頼する以外に更に「アドバイザー」を雇うケースはほとんどなく、「M&Aアドバイザー」なる業者が案件(なり買い手)を持ち込んできて、その会社と「アドバイザリー契約」を結ぶ、というのがほとんどではないかと。
そして報酬も売買金額に応じた成功報酬が多い。
つまり実質は仲介業者なので、アドバイザーといいながら成約する方向にインセンティブが働くわけです。

なので依頼するほうも仲介業者と割り切って、うまくいったら報酬は払うから余計なことは言わないでくれ=「専門的なアドバイス能力」に(もしあったとしても)期待するのでなく、手間のかかる資料整理とか言いにくい事を相手に伝える役目でせっかくなら汗をかいてもらおう、という使い方をすることが多いのでは。


ではなんで仲介としないかというと、「有価証券の売買の媒介」は金融商品取引業になるので、登録業者しか扱えないことになりますし、法に沿った各種の行為規制に服することになりますが、世の中の「M&Aアドバイザリー」業務をやっている会社は金商業者登録をしていない会社が多い(今回の三井住友銀行も金融商品取引業としては行っていないと思います)ので、契約上は「業務委託」とせざるを得ないという事情があるようです。

このへん、脱法行為なんじゃないか、とも思えますが、「アドバイザリー業務」の全体をみて実質的に「有価証券の売買の媒介」にはあたらない、というあたりを言い訳にしているのではないかと(でも、案件持込みが先にあるというのはけっこうグレーなんじゃないかと思うんですが・・・)。
ただこの点について金融庁が摘発した事例は(多分)ありません。
M&A市場の発展については経産省が昔(金商法の前の証取法の頃)から積極的に後押ししていた部分もあり、ここを突っ込むと金融庁と経産省のガチのケンカにならざるを得ないのであまり突っ込まないという事情もあるのではないかと思います。
また、大手ローファームなどはM&Aアドバイザーは案件を顧客つきで紹介してくれる上得意なのでそんな無粋な突っ込みはしてこなかったのではないかと思います。


今回の訴訟ですが、大体こういう契約はアメリカあたりの契約の孫引きなのか知りませんが重過失でも(場合によっては何が起こっても)免責というような契約条項になっていることが多く、本件も評価の間違い程度では契約条項上は免責になってしまうと思うので、原告の会社側は「実質は仲介契約だった」とか適合性の原則などを持ち出して「免責条項は無効だ」などと争うことになるのではないかと思います。


本件も「大人の事情」を知っている同士の取引なら「アドバイザーの言うことを真に受けたほうが阿呆」で済む話だったと思うのですが、手数料獲得をあせるあまり「素人を大銀行が騙した」という形になってしまい、その結果いろいろ寝た子が起きることになってしまったのだと思います。

せっかくここまで来たのなら「M&Aアドバイザリー業務とはなにか」をガチンコで争ってほしいものです。



あと最近、弁護士や会計士・税理士・コンサルタントがグループをつくって「ワンストップサービス」を提供するというのも見られますが、これも下手をするとそれぞれの専門化から余計なアドバイスをされたあげくに事業譲渡とかM&Aとか民事再生とかのディールに誘導されて報酬だけ取られてしまうという「竹の子剥ぎ」にあってしまう可能性もあるので、(そんなに悪い人ばかりではないとは思いますが)利用する側も注意したほうがいいと思います。


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内定取り消しは整理解雇?

2008-12-23 | あきなひ

昨日の朝日新聞の夕刊「働く人の法律相談」を見ての疑問

内定取り消し 合理的理由なしには許されない

採用内定は、口頭も含め通知された時点で、労働契約が成立したと考えられます。これを取り消すのは解雇と同じことで、合理的な理由がない限り許されるものではありません。 
景気悪化を受けての内定取り消しとなると、整理解雇に当たります。有効とされるためには・・・[以下整理解雇の4要件の解説]  

これらの要件を満たさない場合は解雇権の濫用にあたり、内定取り消しは無効といえます。学生は来年からの就労を認めるよう会社に要求する権利があります。または、少なくとも就職が1年遅れてしまうのですから、せめて1年分の給与相当額を会社に請求することを検討しましょう。

執筆者は弁護士なのですが、本当にそうなのでしょうか。

内定通知で労働契約が成立するとすると「内定」ってなんなのでしょうか(そうだとすると労働契約法上は内定の時点で就業規則を書面で提示する必要があります。)。
正式な採用通知、または正式な採用の申し込みと承諾といえるような事実行為が必要なのではないでしょうか。

当然「内定だから勝手に取り消してもいい」というわけではなく、契約成立のための信義則上の義務違反として取消した企業側にも一定の責任は生じると思いますが、整理解雇の法理が適用されるというのは言い過ぎのように思います。

そのうち(何事も後追いの)格付け機関は、採用内定もニューシティレジデンス投資法人の倒産の原因になり、 日本レジデンシャル投資法人が剰余金をすっからかんにして命からがら逃げ切った「フォワード・コミットメント」(最近なんでもカタカナで言うのはどうにかしたほうがいいと思うのですが、将来の物件の売買義務を負うこと)の問題と同じとして「採用内定者が多すぎる」というのを理由に格下げするようになるのかもしれません。

それは冗談として、内定を取り消された学生は気の毒なのですが、逆に言えば本来企業の継続的成長には従業員の新陳代謝も必要なのにもかかわらず現在いるコストの高い社員の早期退職させるとかする前に内定取り消しをするような企業は①そこまでの体力・信用力すらない②その程度の見識の経営者、かのどちらかなので、入社して後悔するよりはよかったとも考えられないでしょうか。
ただ、タイミング的には就職活動は難しい状況で、1年留年するとしても年齢とか留年数や経済的に後がない人もいるという問題はあると思いますし、途中で破綻してしまったとしても就業経験があるのであればかえって中途採用のチャンスがあるので、内定取り消しのダメージは実質的にはかなり大きいのかもしれません。

その辺は今の企業の採用の仕組みの横並びや雇用の流動性のなさの問題が根本にあります。

そしてそれは労働契約の終了についてかなり厳しい判例が原因のひとつになっていることも否定できないと思います。


内定取り消しを受けた学生に対して応分の補償は必要だとは思いますが、上のように整理解雇の4要件を振り回すことは、かえって企業の採用意欲を減退させてしまうことにはならないでしょうか。

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「ビッグ3」

2008-12-22 | あきなひ

僕、電通にいるときによく言ってたんですけど、「電博」(でんぱく)って言い方はやめたほうがいいと。電通のほうがもう圧倒的に大きいのに、「電博」って言い方するからスポンサーもなにかにつけ「電通と博報堂の競合にしよう」って思いますよね。スポンサーの中では一対一に近づいてしまうんです。

『経済ってそういうことだったのか会議 』での佐藤雅彦氏の発言です。


アメリカの「ビッグ3救済」でずっと思っている違和感が「今でもBig"3"」なのか、ということ。
3社を比較すると

                           GM          フォード      クライスラー
世界販売台数      936万台       655万台       267万台
従業員数             252千人       224千人        63千人
米国内販売シェア    22%           15%             11%

と、明らかにクライスラーの規模は小さいです。
かつては「ビッグ3」だったのでしょうが、公的資金による救済とその前提としての経済への影響の大きさを考えると、問題は「ビッグ2」のようにも思えます。

しかもクライスラーは投資ファンドのサーベラスが株主なので、その面からも救済すべきかという論点はあると思います。

逆にそれだからこそサーベラスは自分も救済策に滑り込もむために「ビッグ3救済」という必死のマーケティング活動を行っているのかもしれません。

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