一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『原発ホワイトアウト』

2013-11-13 | 乱読日記

霞が関のキャリア官僚による原発再稼働をめぐる関係者の思惑を小説仕立てにした本。

ウェブでの内容紹介によると

再稼働が着々と進む原発……しかし日本の原発には、国民が知らされていない致命的な欠陥があった!
この事実を知らせようと動き始めた著者に迫り来る、尾行、嫌がらせ、脅迫……包囲網をかいくぐって国民に原発の危険性を知らせるには、ノンフィクション・ノベルを書くしかなかった!

とあるが、これはちょっと扇動的な表現で、しかも正確ではない。


面白かったのは巨悪の摘発でも「ホワイトアウト」のところでもなく、 原子力政策・電力政策をめぐる電力会社・経産官僚・政治家などの思惑がリアリティをもって描かれている部分。

この辺が白眉  

 現在の政治システムが電力会社のレント、すなわち超過利潤に依存している以上は、覚醒剤の中毒患者が 覚醒剤を欲するように、政治家も地域社会も、電力会社のレントを必ず求めてくる。
 参院選後三年間は国政選挙がない。となると、世論の動向を注意深く読んで政権を慎重運転するインセンティブも、官邸には少なくなる。  
 さすがに、10電力体制の維持、あるいは地域独占の継続までは揺り戻されないだろうが、 「電力システム改革はやりました」と保守党政権が胸を張りつつ、細かい穴がいくつもあって、実際には競争は進展しない状態、というのが現実の落とし所だろう。
 日村(注:経産官僚、資源エネルギー庁次長)にとって譲れない一線は、あくまで競争のフレームワーク のさじ加減は官僚が決める、ということだ。


  電力会社が民間企業であることを維持しさえすれば、電力会社の調達先・取引先には「競争が始まったんだから」 と言って発注金額の割増分を削減しつつ、ある程度のレントを維持することは可能である。 そこに、政治だけでなく、行政も群がる。規模を縮小した形で電力の密は温存されることになる・・・・・・。
 それでいい、とはさすがに日村も思わない。
 ただ、国民が選挙で保守党を選んだ以上は、その論理的帰結が原発再稼働である。 保守党と民自党という二大政党のいずれもが政治献金の廃止を公約として掲げない以上は、電力システム改革は進まない。 最高裁判所も、八幡製鉄所政治献金事件のあと40年以上も、それを放置している。
 日村も巨大な政治経済システムの一歯車に過ぎない。個人でできることには限界がある。 巨悪を一役人が糺すことはできない。正義の追及は、「朝経新聞」と報道ニュース番組にお任せしていればいい。

後半に「ホワイトアウト」に向けて話が加速する。
小説としてはそちらのほうが華があるのだが、本書を味わうなら前半の部分のほうが美味だと思う。


以下は余談というか下衆の勘繰り。  

本書の発行は今年の9月。おそらく参院選後に脱稿という感じ。
ただ、7月の人事で昭和55年入省が事務次官になったのに、 ほぼ同年齢と思われるの日村の焦りのようなものが反映していないあたりは、そっちのリアルを追求したわけではないからか、 はたまた著者が若いからか。
(もっとも最後の方で、今回の若返り人事を主導したとされる官房長官に意趣返しをしているが。)  


本書の含意の一つが「官僚の言うことを額面通り受け取ってはいけない」ということだとすれば、 官僚が書いたとされる本書の中身にも、真に受けてはいけないと思われる部分がいくつかある。

一番は、何か所かに出てくる「官僚は薄給」という表現。
課長になれば世間的には「薄給」ではないし、審議官以上の指定職であれば そこそこの処遇水準だと思うのだが。
そして、出世のピラミッドから外れた人も外局にポストがあったり天下り再就職紹介など定年後も面倒を見る仕組みが整っているので、今や大手企業と比べても、 リスクの少なさも含めて考えれば悪くないのではないだろうか。 (経産省は外局などが少なくて比較的面倒見が悪いという話もあるが。)
「官僚は薄給」というテーゼがいろいろなことを正当化する前提になっていたりする感じがするが、 官僚のプライドなどとの関係も含めて、著者に次回作で掘り下げてみてほしいテーマである。

そして、巻末にあるこの一文。

* 本書の印税の一部は、「東日本大震災ふくしま子供寄附金」に寄付されます。

「印税の全部」ではないことがポイント。
官僚的な表現では寄付が100円でも「一部」にはなるわけで、 これをあえて書いた著者の意図にちょっと興味あり。


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「イメージ」と「ブランド」の違い

2013-11-11 | よしなしごと

最近の食品偽装騒動では、はからずも バナメイエビクルマエビ の違いとか、イセエビと「科」は同じだが「属」が違うアフリカミナミイセエビ など魚介類の品種にやたら詳しくなってしまった。

こういう偽装や無知に基づく誤表示がまかり通るのは、 「クルマエビ」や「イセエビ」という品種そのものについては、 その良さをPRしたり偽物から守ったりと積極的に行動するメリットがなく、 「ただ乗り」をしてしまう、いわば「共有地の悲劇」の一形態のように思う。

たとえば「関サバ」「関アジ」であれば佐賀関漁協が積極的にPRし、商標登録をして他人のただ乗り を許さず、ブランドになっている。
そのため同じ豊後水道で獲れても愛媛県側で水揚げされたものよりも 高く売れている。
「大間のまぐろ」もそうで、これに対しては同じ海域で漁をする北海道の戸井では、 処理を迅速にして品質を保つことで「戸井のまぐろ」として対抗している。

ところが「クルマエビ」や「イセエビ」という名称は品種そのものであり、獲れる漁場が限定されているわけでもないのでどこかの漁港の特産というわけではない。
しかも品種の名前だけでは商標登録もできない なので、漁業関係者や食品業界にとっても、コストをかけて積極的に偽物を排除する動機づけが働かない。

これは「和牛」などについても同様。 (もっとも牛肉は狂牛病騒動以降トレーサビリティが徹底しているので、もっぱらレストラン側の問題 ではあるが)

しかし、今回のようにいい加減な表示が横行しているということが明らかになると、市場全体の信頼が損なわれる「レモン市場」問題が起きる。 

ブランドや登録商標になっていれば、ただ乗りを排除するために努力する当事者がいるのだが、「何となくいいイメージを持っているもの」のイメージにただ乗り-ただ乗りだけなら問題ないのだが、それをするためにウソを つくこと-を排除するには、供給者側の自主規制や相互監視くらいしか方法がない。

法律的にも景品表示法の優良誤認とか、ひどいものなら刑法の詐欺罪に訴えるしかない。


行政にどうにかしろ、といっても、そんなことに税金を投入するのは無駄であるし、 行政は食品の安全や衛生面を責任を持って見るのが本来の仕事で、 表示については 「銀ムツ(メロ)」 のように広く誤解が生じるようなものを是正すればいいだと思う。


なのでわれわれ消費者としても、「そういうものだ」という前提で、自分が食べるうえで 味と値段が納得するものであればいい、 というくらいのスタンスで臨めばいいと思う。

「素人のキャバクラ嬢」という触れ込みに対するスタンスみたいなもので、 承知で騙されることを楽しむのならいいのだけど、そもそも形容矛盾のイメージに一方的に期待して、 挙句の果てにむかっ腹を立てるのは、みっともないだけでなく、精神衛生上もよろしくない。

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